あるいは彼らは虚を突かれたような、またはがっかりしたような顔をしていたのかもしれない。ユリウス
嬢にはボリシェヴィキの恋人がいた。夫の仲間を恐れる理由は彼女にはない筈だ。ましてや、怯えてシャル
ロッテンブルクを駆け回ったり絶望して運河に身を投げる理由は…。いや、ひとつある、完全に辻褄の合う
説明が。エーリヒは、ラッセン夫妻から目をそらした。
「ボリシェヴィキって…本当にそんなことがあるんですか?」「まぁ、いくらかははったりですがね。彼ら
も何十万にも及ぶ亡命者をすべてどうこうするゆとりはないでしょうし。しかし、ね」共犯者めいた表情に
なった。先ほどまでの真面目さがやや薄れて、粋な会話を身上とする軽薄紳士が顔を出している。
「皆様のような高貴な方々ならわかるんじゃないですか? 『赤いベルリン』は、ボリシェヴィキ政権とは
ウマが合いそうじゃあないですか。まったく、青い血を持つ者には居心地の悪い世界になりましたよ。ねぇ」
平民エーリヒは、いないことになっているらしい。「ご苦労なことです」
ラッセン中尉の言葉の響きが、やんわりと男爵の非礼を咎めていた。
「貴族面していても私はヴィーンの成り上がりですから…妻を守るには有利なのかな」
「え、まぁ一般論というか…奥さまはお幸せですな」話を振られても、夫人は黙っている。
「で、貴方はその後どうされたのです?」「え?」「義妹と別れた後ですよ」
「戻りましたよ。事務所に」「病院ではなく?」「事務所です。皇女はいないんですから」
「犬を見ませんでしたか?」「犬?」
「彼女を見た人が、飼い犬が異国風の紳士にじゃれついて困ったと話していた」
「犬、ですか? さぁ…どんな犬ですか?」「赤茶色の小型犬です」
「見た気はしますが…あの日じゃなかったと思いますよ。あの地域にはロシア人は多いし」
赤茶色の犬、マルティン・モーザーの飼い主ローゲ。モーザーに証言を頼んだのが男爵なら何かの反応があ
ってもおかしくはない。だが、今回のブラフは不発のようだ。男爵の反応は至って自然だ。あの界隈を行動
範囲にしているのだから、「見た気がする」に違和感はない。ラッセン中尉はレモネードのグラスを揺らし
ている。表情は見えない。
喫茶室を出て、ウンター・デン・リンデンへと向かう男爵は、こころなしいつもより長身に見えた。足運び、
挙措はどこまでもエレガントである。亡命者ではなく貴紳に見える。そして、彼自身が、明らかにそれを意
識していた。
「妻は上で休んでいる。夕食は、ホテルに頼んで軽いものを部屋に持ってこさせるよ」
階段を下りてきたラッセン中尉は、エーリヒを促しながら速足でバーへと向かった。
「気を張っていたが疲れているようだ。美術館も行った甲斐がなかったそうだね」
「ええ、父上寄贈の彫像は見つかりませんでした」あの時の夫人の態度に感じた違和感は伏せておく。
「僕はそれ、見たこともないんだ。アンティノウスだって?」「ええ」
マリア・バルバラは、デイ・ドレスのままホテルのベッドに横たわり、石膏細工で飾った天井を眺めてい
た。父は、忠義顔をしてドイツ皇帝にアンティノウスの像を献納する一方、陸軍の情報をロシアに流してい
た…恐らく。裏切りの石像…そう言えば、あの像の顔は若い頃の父に似ていると誰かが言っていた。ならば、
父親似といわれた彼女自身もやはりあの像に似ているのだろうか。そして妹も、裏切り者の顔をしていたの
だろうか?
バーは、最近内装を変えたようだ。アメリカ風の設えに、華麗に銀色のシェイカーを操るバーテンダー。
二人の前に置かれているのも、カクテルグラスだ。
「貴方だって気が付いているはずだ。ユリウス嬢が、ロシアで何らかの形で体制派のスパイかそれに近い立
場にいたとしたら、このミステリは大団円だ。彼女は、夫の死に何らかの責任があった。それは自分では意
図していないものだったかも知れない。だが、彼女が自分に責任があると考えるには十分だった。彼女は深
く衝撃を受け、忘れようとしていたが、多分オステン=ザッケン男爵のロシア語で思い出してしまった。『ボ
リシェヴィキの追手』という言葉で、夫の復讐を考えた彼女は逆上し、何かのきっかけで一線を越えた…」
「貴方が、マリア・バルバラ夫人に伝えにくいと考える訳は分かります。死んだ妹がスパイまがいのことを
していたというのは、あの気品ある方には辛いことかもしれない。でも、彼女はそこでひるんだりするひと
じゃあない、真実を見つめる気力がある」「随分彼女のことに詳しいね?」
だが、中尉はそれ以上絡んだりからかったりはしなかった。エーリヒはカクテルに口をつけた。マティーニ。
20年代の酒、アメリカの酒だ。
「…彼女をドイツまで連れ帰った女性は、ヴェーラ・ユスーポフと名乗ったんだ」
「え?」ユスーポフの名には覚えがある。ロシア体制派、皇帝側近の若手軍人で、ラスプーチン暗殺への関
与が取り沙汰されていた。「レオニード・ユスーポフ侯の縁者ですか?」
「妹だといった」「ならっ!」ユリウスは、ユスーポフ侯とつながりがあった。彼が、彼女と彼女に対する
アレクセイ・ミハイロフの愛情を利用したのか、あるいは何らかの事情で彼女が自らその役割を負ったのか
…そしてその重さに耐えかねて自滅したのか。
「それで、完全に筋が通るじゃないですか。ユリウスとユスーポフ侯の間に何があったにせよ…」ユリウス
と呼び捨てにしたことに気が付いた時には手遅れだった。中尉は、エーリヒから目をそらせた。
「だからと言って、彼女が殺されかけたこと、そして警察がそれを否定した説明にはならないよ。君、男爵
の『ボリシェヴィキの追手』なんて冒険小説みたいな話を信じるのかい?」
中尉は暗い目をカクテルグラスに注ぎ、思い出したように手に取った。
「僕もどこかで信じてるのかな、窓の伝説を」中尉の声とは、しばらく分からなかった。
妹たちは父の血を引いていた…上の妹は明らかに、そして下の…ユリウスは? 彼女が知りようのないと
ころであった、あの娘の物語。それは父の物語の続きだったのだろうか? それとも…「オルフェウスの窓
>の伝説は本当」。自分の声に、彼女は驚いた。
「明日は午後から、ベルンブルガー・シュトラーセに行くんだ。ベルリン・フィルハーモニーでのマチネ
ー公演に立ち会うんでね。妻も同行する。マチネーの後でどこかで落ち合うかい?」
言葉を継いだラッセン中尉には、さっきの屈託は微塵もなかった。
「そうですね、時間はいつぐらいで? 車を回しましょうか?」
相槌を打ちながら、エーリヒはポケットの紙片を探った。最近彼のポケットは、他人の秘密の落ち合い場所
になっているようだ。だが、訓練された元諜報員にメモは必要ない。アルノルト・フォン・シュヴァルツコ
ッペン、イェーガースホフ、グルーネヴァルト。