「じゃぁ、明日はマチネが終わる頃にベルンブルガー・シュトラーセに来てくれないか。僕たちと、あとハイ
ノ・キースリンガーもいるからね」「ハイノ?」「僕の秘密兵器さ」
ラッセン元中尉はさらりと身を翻して、ホテルのエレヴェーターへと向かった。残されたエーリヒの方は、カク
テルのお代わりをする気にもなれないまま、手持ち無沙汰にロビーのソファに腰を掛ける。矢車菊の色をした瞳
を振り払って、明日の予定を反芻してみた。ヴェレンドルフの葬式、そしてヴィーゲラー編集長…謎のシュヴァ
ルツコッペン氏は…コーヒーカップの上で震えていた白い手…「白い手のイゾルデ」…思っているより疲れてい
たらしい。眠気が差してきたので、慌てて頭を振って立ち上がった。帰ろう。そんなに遅い時間でもないが無理
は禁物だ、医者代は高くつく。
 立ち上がろうとしたところで、ロビーに急ぎ足で入ってきた若い娘と目が合った。
「ヘル・グリュンデナー?」
ややのっぺりとした顔立ちに見覚えがある。「貴女は男爵の秘書の?」娘は息を整えた。          
  「ダーリヤ・ヴァレンコヴァですわ。お話がありますの」「…ずいぶん遅いですよ、もう」
「ええ、でも私も仕事がありますし、こうするしかなかったんですの。急ぎの用ですし」
男爵の秘書は、背筋をこれ以上できないくらいに伸ばした。「大事なお話なんです」

とりあえず紳士ぶりを発揮し娘に椅子をすすめた。娘は、入隊したての兵隊みたいにしゃちほこばって座る。
「大事なお話と言いますと?」「男爵のことですわ」「…なるほど」                   
  「皆さん、男爵のことを誤解なさっているんじゃないかと思いますの」「誤解、ですか?」
「男爵はまっとうな…紳士、です。私たちの組織もそうですわ」大きく息を吸って言葉を継いだ。
「オステン=ザッケン男爵は、ドイツにご親戚がおありというだけのことでこのお仕事を任されたんです。でも
よくやってらっしゃるんです。毎日毎日、ほんのわずかな伝手を頼りにたくさんのお手紙を出して、銀行だの官
庁だの色んなところにお出かけになって。立派なお家の方なのに、本当に骨惜しみせず働いていらっしゃる。中
には居留守を使ったり、寄付すると言いながらむしろこちらから何か引き出そうとする方だっておられるのに。
それに少しずつ、ちゃんとお仕事を見つけてこちらで生活できている移民も増えてるんですよ。それも、あの方
が努力されたおかげですわ。アナスタシア皇女さまに関わり合いになったからと言って、あの方のお値打ちが落
ちるようなことはないはずですわ」よほど上司に心酔しているらしい。「貴女は皇女を信じていないの?」
娘は、かすかに目を伏せ、息を整えた。「分かりません。本当の皇女様を知りませんもの」
うまく逃げたな、と思う。「じゃぁ、どうして男爵のお値打ちが下がるなんて思ったの?」
娘は、膝の上でスカートをぎゅっと握った。「貴方はそう思ってらっしゃらないと?」
「僕だって、皇女様が本物かどうかなんて分からないのに、男爵をとやかく言えませんよ」
「…フライコーア(義勇軍)」上目づかいにエーリヒを見上げてきた瞳は、意外なほど大きかった。     
「ああ、一度事務所で見かけたよ。そんなによく来るのかい、彼らは?」
「…あの人のせいで誤解されてるんですわ、貴方がたは。あの人は、難民保護局とはなんの関係もありません。
来るようになったのもほんのひと月ほどのことなんです」
「何の用事で来るようになったの?」きっと皇女がらみだね、と心の中で付け加える。
「ファルケン=ホルストさんは、グリュンベルク様の連絡係なんです」
ファルケン=ホルスト。幼さを残した丸顔が浮かんだ。極右組織の支持者として知られるグリュンベルクなら、
フライコーアの若者を便利使いしていてもおかしくない。
「アナスタシア皇女を、引き取った人だね」「こちらでは、地位のある方なんでしょう?」
「…うーん、そういえるかもしれないね」「首都警察と関係のある方だと、男爵は」
ひどく真剣だった。この娘が、ウンター・デン・リンデンまで来た目的はこれだったのだ。ロシアとも危なげな
政治組織とも関係のないドイツ人から、グリュンベルクの人物について、何らかの言質を引き出そうとしている。
「ああ…それは間違いないね」この娘が怪しんでいるのは、グリュンベルクなのか、それとも皇女なのか?  
「そうなんですか。男爵はあの方をひどく頼りにしておられるので」
「アナスタシア皇女の件で?」「それ以外にも、銀行や政府にもお顔が広いのですって」
警察、そして銀行、政府。ユリウス嬢の自殺偽装の黒幕はグリュンベルクなのか? だがなぜ?
「…安心しましたわ。うかがってよかった」立ち上がった娘に、慌てて声をかけた。            
「おうちはシャルロッテンブルクでしょう? もう遅い。タクシーを出させましょう」「そんな…」
はっとしたように目を見張る。「じゃあ…お願いします」わずかな贅沢とも、無縁な生活なのだろうか…。
気まずさを振り切るように娘は話し出した。
「これでもロシアでは地主の娘で、お嫁に行って安楽に暮らすだけの人生のはずでした。女学校ではドイツ語で
首席でしたけれど、そんなものは嫁入り道具にもならないと思っていたんですのよ、実は」
エーリヒを見た顔には、しかし晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「でも今それが役に立っているんです。ドイツ語も、私自身も。男爵もそうお考えじゃないでしょうか」
スカートがさっと翻る。タクシーへと向かう彼女を、ベルリンの街の灯が華やかに出迎えていた。
 
電話が鳴っている。あいつめ、と舌打ちしかけて気が付いた。たった1人残った従僕は3月ほど前に暇を取っ
てしまったことに…。この屋敷は、彼ひとりには広すぎる。いっそ小分けにして賃貸するかとは思うものの、改
装するのに先立つものがない。どうかすると募る侘しさにいらつきながら、彼は電話をとった。
「はい、イェーガースホフ」「ヘル・アルノルト・フォン・シュヴァルツコッペンとお話ししたいのですが」
男、30代、教育あり、訛りはない。知らない声だ。「私です」
「遅くに申し訳ありません。エーリヒ・グリュンデナーと申します。ラッセン夫人のご紹介でお電話差し上げま
した」「ラッセン夫人? 存じ上げないが」
「旧姓アーレンスマイヤ嬢です。レーゲンスブルクのマリア・バルバラ・フォン・アーレンスマイヤ嬢」
「…その方なら存じています。どういうご用件です?」
送話器を掴む手の震えを懸命に抑えた。古い恋文、父の皮肉な笑み。「俺には俺の居場所があるのさ」。彼の手
を振り切った弟の手の、意外なほどの温もり。そう、私には分かっていたのだ、おそらくこの名前をいつかもう
一度聞くことがあるのだろうと。
「彼女は今ベルリンに来ています。貴方にお会いしたいとお考えです」「喜んで、ヘル・グリュンデナー」