3、優しい時間





ホテル ザッハ3階の一室。アレクセイは朝から落ち着きません。
片手を頭に、もう片手で机をノック。“コンコン コンコン”部屋に鳴り響いています。  
「ユーベルが遅すぎる。いつになったらミーナの結果を知らせに来るんだ。」  
“コンコン”ドアのノックに気が付かないのは、自分で鳴らす机の音が邪魔しているから!
ユリウスが溜息顔でドアーを開けます。アレクセイも大急ぎで入り口へ……、そこには!        
アンナが。
ユリウスは嬉しそうにアンナの手を取り、後ろを振り向き目で合図。アレクセイは直ぐに全てをのみこみます。
ウィーン少年団、寮母のアンナさんですね。ようこそ、どうぞ中へ。」
アンナはびっくりします。アレクセイとは初対面なのに何故?
アンナさん。ようこそ、ミーナの父親アレクセイです。あっ、そうですね。妻の考えている事はわかるのですよ。声
に出さなくてもね! 夫婦ですから。さあさあ、冷たいレモネード。妻が用意しています。座って、暑かったでしょ
う。雨の中、わざわざ。」
アレクセイはアンナをソファーに促し、ユリウスはアンナの手におしぼりを。
「あぁ、冷たくて気持ちいい。」吹き出た汗を押さえます。そして、レモネードを一口。 
「あぁ、美味しい ! あら、ご免なさい。私ったらきちっと自己紹介もしないで。」  
アンナが立とうとすると、アレクセイは
アンナさん。そのままで、俺達もほら、座っていますよ。でっ、今日は。」 
「あっ。私、寮母のアンナです。あのう、ミーオ。じゃ、なくて。お嬢さんのミーナさん。舞台に立つことが決まり
ました。三つのテスト見事、合格です。」
アレクセイとユリウスは手を取り合い、そしてアンナに頭を下げます。アンナも恐縮。
「私じゃなくて、頑張ったのはお嬢さん。あのう、それでどうしてもお耳に入れなければいけない事と相談がありま
して。」
アンナはユリウスを見詰めます。アレクセイは頷き、
「あぁ、実は今からユーベルと出掛ける約束していましてね。失礼します。アンナさん、どうぞごゆっくり。」
ユリウスもアレクセイの出掛ける支度を。アンナはゆっくりと部屋を見渡します。
「暖かい感じのお部屋 ! ホテルの一室と思えない。」
部屋のあちこちにはお花がコップやお皿になんとも可愛く。「あぁ、いい薫り! ミーオの薫り。カーテンと一緒に揺
れてるのは……ポプリが吊り下げてあるのね。机の上には楽譜が、雨風と一緒に揺れている。サイドチェアーにのっ
てるのは、ヴァイオリン! テーブルの上には縫いかけの可愛いドレス。ミーオのね。ソファーに畳んである男の子の
シャツ、もしかして、ユーベルに? 手作りだわ。」
「アンナさん、ごゆっくり。あぁ、ユリウス。あの事、お誘い忘れずにな!」
ユリウスは優しく頷き、アレクセイは出ていきました。

廊下の向こうから、ユーベルが手を振りながらやって来ます。笑顔一杯、早く知らせたい! ミーナの事。そんな気
持ちで一杯の笑顔!!
「おじさ〜ん。あのね、凄いんだ。ミーナね!」
アレクセイは首を横に振り、ユーベルの口に人差し指を当てます。ユーベルも素早く、意味を理解。
「そうだね。お部屋の外ではミーナのお話駄目だった。秘密。秘密。」
「アンナさんが来てくださった。今、聞いた。ユーベル、ありがとよ。今、ユリウスと大事なお話し中だ。今日はお
じさんと二人だ。
なんでも聞くぞ。おまえの話。
なんでもおごるぞ。美味しいもの。
どこへでも行くぞ。どこへ行こう?」
「そんなにいっぺんに……。えーぇっと?」
「ゆっくり考えろ。昼飯は済んだか?」
「ううん。とうさま、夜から元気がなくて。今も寝てる。昨日の演奏会ぼくは楽しかったんだけれど、とうさま、な
んか、溜息ばかり。きっと……。」
「きっと、なんだ?」
「おじさんとおばさんが仲良すぎて、焼きもち焼いているんだ。今夜は行かないって。お酒飲みに行くのかなぁ?」
アレクセイはユリウスと昨夜から、ホテル・ザッハのロビーから続く扉のない小さな入り口を隔てた、ホールでヴァ
イオリンとピアノの演奏会を開いているのです。今日はその2日目。長期にお世話になった、ホテルへのお礼に。
昨夜はポツポツ数人集まって、催されました。もちろん、イザーク親子も。
「今夜は、バックハウス先生と行くね。夕方、ピアノの練習。その後、ホテルでご馳走してもらうんだ。ホテルのレ
ストラン、初めて!」
二人は、話が弾み、ケーゼ・クライナー片手に広場の噴水に腰かけます。
「そうか。そうか。ご馳走沢山食べてこい。ピアノの練習はどうだ楽しいか?」
「ピアノはね。音階とバッハ、そればっかり。楽しいのかわからない。先生の言う通り練習するだけだよ。」
「ユーベル。バックハウス先生、素晴らしいじゃないか! うん。音階とバッハ、音楽の基本だ。おまえは幸せだぞ、
素晴らしい先生に教えてもらって!
俺もな……。ユリウスに指を治療してもらっているんだ。ユリウスはな、医学の本読んで、医者に相談に行ってな。
痛めた俺の指のため色々勉強してくれているんだ。毎晩、マッサージしてくれるんだ。痛いぞー! 俺も、こうやっ
て。こうやって。グーパー、グーパー、指を鍛えるんだ。ヴァイオリンを演奏する基本だ。基本は大事だ、お互い、
頑張ろうぜ!」
ユーベルはミーナの両親が大好きです。一緒にいると、なんだかほっとするのです。
「ユーベル。今度のクリスマス、スイスに来ないか ? 一緒に過ごそうぜ。冬休みあるんだろう?」        
  「う〜ん。どうかな ? 去年は、バックハウス先生の クリスマスコンサートに付いて行ったよ。大人の人が沢山来て
ね。僕も一曲弾いたんだ。今年もきっと同じだから……。」
「よし ! 今年は、俺が先生とイザークに頼んでやろう。
スイスに来い。 登山電車に乗って、雪山見に行こうか? それとも、レマン湖の遊覧船、ちょっと寒いか! ハッハッ
ハッ。夜は家でユリウスの手料理。旨いぞ〜。」
ユーベルはうっとり、夢を見ます。そして、心の中で。
“行きたい! でも、無理だ。きっと、先生もとうさまも許してくれない。ありがとう、アレクセイおじさん。ありが
とう”
「そろそろ、行こうか! あそこへ。」
「うん。ドブリンガー楽譜店。昨日もあっという間に夕方になってビックリした。ピアノの練習に遅れそうになって
走って帰ったんだ。ぼく。」
「今日は少しにしよう。最後にホテルに寄るんだろう。ユリウスのレモネード飲みに。」
「うん、ちょっと待って。先に、おばさんにお花のプレゼント買うから。」
ユーベルは毎日、ユリウスに小さなお花をプレゼントしていました。昨日は、ウィーンの森へ出掛け、可愛い黄色
の草花を根っこごと掘り返しました。根っこの所はお水に濡らし、綺麗に紙に包んで、『スイスのおうちのお庭に
植えて下さい。』という、メモを付けて。
その前の日は、白いお花。
だから。今日は青いお花、でも今日はウィーンの森に行けなかったので、お花屋さんで買うことに。
ユーベルは花屋のおじさんに相談します。
「青いお花をプレゼントしたいの。でも、明日スイスに帰ってしまうの。どうしようかな?」
おじさんはニッコリ笑って、小さな紙の袋を持ってきました。
「青い花が咲く、花の種。秋に蒔くと春に沢山咲くよ。花の名前は、忘れな草。」
ユーベルは大喜びで、「これで足りますか?」ポケットのおこづかいを全部、掌に乗せました。おじさんは大笑いで
「花の種は安いよ。これで、お釣りが出る。安心しなさい。」
硬貨を一つ取り、お釣りを握らせました。
「ガールフレンドにあげるんだね。リボンも付けよう。」
青い可愛いリボンの付いた、プレゼント。ユーベルは大切に受けとり胸に当てました。
アレクセイは小さく呟きます。
「ユリウスがユーベルのガールフレンドね。まっ、いいか!」

小さな路地を曲がったところにその楽譜やさんはあります。
アレクセイはウィーンに来たら是非、立ち寄りたいと思っていたお店です。期待通り、ジャンルを越えた数多くの
楽譜が所狭しと並んでいました。
ユーベルもバックハウス氏と何度も訪れているようです。
入り口に『店員募集』の張り紙が! アレクセイは楽譜を探しながらもそれがとても気になっていました。
“こんなのもある”手に取って口ずさんでいると、時間があっという間にに過ぎていきます。
ユーベルはバックハウス先生の頼まれもののベートーベンの楽譜を店員さんに探してもらっています。「アレクセ
イおじさん、もうそろそろ行かなきゃ! 」
店員の女性が、“はっ!”と、アレクセイを見詰めます。
「昨夜、ホテル・ザッハで、ヴァイオリンを弾いておられた方? やっぱりそう。」
「お姉さん。ぼく、今夜もいくよ。」
「あの格調高いホテルで珍しいです。演奏会初めてじゃない? 私も今夜も行くの。アンナ・ザッハでお食事もして。」
「ぼくも一緒。お姉さん、楽しみだね。」
「さっき、店員募集。見詰めておられて……。何か?」
「いや。友人にぴったりかなって。まぁ、いいんです。2日も聴きに聴いてもらえるの、嬉しいです。ありがとうご
ざいます。ユーベルそろそろ行くよ。失礼します。」
今日もあっという間に時間が過ぎ、二人は急いでホテルへ向かいます。
「ねぇ、おじさんも楽譜買った?」
「あぁ。もちろん、ウィーンの思い出にシュトラウスのワルツ曲買ったよ」