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ミーオのこの日のテストは、夕食後の7時から9時まで行われます。
約束の5分前にミーオはヴィルクリヒ先生のレッスン室のドアーをノックしました。扉を開けた先生は、ミーオ
を中へ招き入れ、「よく来たね。歌の大好きな少年。さぁ、始めよう。」
ピアノの前に座りました。そして……テストの内容を説明しました。
「今から、みっちり2時間発声練習をしよう。」
「えっ、発声練習 ? 」
「あぁ、それだけだよ。不満かい ? 」
「いいえ。ぼく、嬉しい。」
「そうか……。」 ヴィルクリヒ先生は、以外な答えにびっくりします。ほとんどの生徒は、地味な発声練習を
敬遠します。30分も続くと早く普通の歌が歌いたいと、おろそかな声に……。それを2時間も行うと、聞いて。
この子はこんなに嬉しそう。それは、本心なのか ? 確かめてみよう ! ヴィルクリヒ先生は、意欲満々です。
「まず、発声の前の基礎の練習。とっても地味な練習。でも、これが大切 !
大きくお腹を膨らませ息を沢山吸い込む。それを、少しずつ少しずつ出していく練習。」
ミーオは大きく息を吸い込むます。
「肩に力が入ってもいる。肩の力を抜いて。いくよ。 フゥー……」
ミーオも続いて「フゥー………………」
「そうだ、ミーオ。少しずつ長く、長く。できるだけ長く調節して続ける。膨らませたお腹をぺったんこにし
て、全部空気を出しきる。その上に声が乗っている。」
ミーオの細く美しい空気の声が、続きます。
「先生、お腹を使うのって凄い ! こんなに長く声が、続くなんて。」
「よし。もう一回、いこう ! 」
2回、3回、続けられ……どんどん、声は響きます。「えっ、まだ続いてるの ?」 って言うぐらい、その声は途
切れる事なくとても長く続きます。そして、最後にっこり笑顔に。
「ミーオ、最長記録だ。次のレッスンに進もう。」
「えっ、先生もう終わり ? ぼく、もっとやりたい。」
結局、この後10回もこの地味な練習が続けられました。
ヴィルクリヒ先生は何だか楽しくて、テストを行っているということを、忘れてきていました。
「ハミングに移るよ。口を閉じて、鼻腔。鼻の奥を開けるように、さっきと同じようにお腹の息を、長く延ばし
て出していく。」
「んー……」喉も鼻も奥の方が、ポカポカ暖まってきた。なんか、いい感じです。
「次は、腹筋の練習。」先生はミーオのお腹に手を当てました。ミーオ、ちょっとびっくり。
「ミーオ、膨らませたお腹を一気に縮める。その時、“ ふっ ! ” と、声を出す。」先生はミーオのお腹をぐ
っと、押しました。ミーオ、またまた “ どきっ ” と、びっくり。
ミーオは自分でお腹を押さえ、「ふっ! ふっ! ふっ! 」腹筋を使い、声をスタッカートさせる練習が続きまし
た。10回、20回、30回……何回続けてもミーオは、楽しそう。結局、100回続きました。「ミーオ、お腹、大丈
夫かい ? 」ヴィルクリヒ先生の心配もはねのけて、
「はい。楽しかった。ぼく !」ミーオはぜんぜん、余裕です。
「じゃあ、本来の発声練習を始めます。」
ヴィルクリヒ先生はピアノで、音階を弾き、ミーオが声を合わせました。
「♪ ア ア ア ア ア〜ア ア ア〜 ア ♪ 」澄みきった細く、でも張りのある美しい声 ! 地味な基礎の練習の
賜物の声でした。 半音ずつ高音へソプラノが響きます。
「ちょっと待って、それはもう……。」と、言いかけて先生は言葉をのみ込みました。
「なあに、先生 ? 」
「いや。いいんだ。」
“ それは、もう。女の子の声だよ。” ミーオを男の子と信じきっている先生は、それを言うと彼を傷付ける
と、思ったのでした。
ヴィルクリヒ先生は自分のピアノに合わせ美しい声を響かせ、楽しそうに発声練習を行う、この生徒といるこの
時間を、夢の様に感じてきました。“この子の、高音はどこまで登り続けるんだ ? ”ヴィルクリヒ先生はピア
ノを弾く指を止めました。
「ミーオ、もしかして君は、コロラトゥーラが出来るのかい ? いったい、どんな先生に声楽を習っていたんだ
い ? 」
「ぼくが生まれた時からお世話になっていた、病院の若先生の奥さんに、ピアノと、声楽と、ソルフェージュを
習っていました。」
「生まれた時から ? 」
「お母さんとはずっと別れ別れ。お父さんも、いなくて。」
ミーオは校長先生の注意を思い出し、言葉を選びます。
「そうか、ソルフェージュも習っていたのか……。」
「ぼく、ソルフェージュ大好き。奥さんが、音を正しく聞き取る事は大切よって。ピアノで弾いた音をよーく聴
いて、ドレミで歌うんだ。いつも、100点満点 ! 」
ヴィルクリヒ先生は早くも明日のテストが楽しみに !
「ミーオ、そのソルフェージュが明日のテストだ。とびっきり、難しい問題を考えてくるからね。」
「明日のテスト ? じゃぁ、今日のテストは ? 」
「もちろん、合格 。どんなに、歌が上手でも発声練習を怠ってはいけない。君は最後まで、一生懸命だった。
丁寧に心を込めて、声を出し続けた。単調な練習だけれど、一つ一つの練習の意味をよく理解しようと、してい
る。それが、歌う心。正しく歌う心。君は、それを持っていた。」
ミーオは大きな目を、くりくりさせ、「ばんざーい ! ばんざーい ! 」大きくジャンプ、両手をぐーに握りしめ
肩の横でわくわくガッツポーズで喜びました。
時間は9時45分、まだ少しテストに当てられた時間が残っています。
「ミーオ、コロラトゥーラの君の声で、何か一曲聴かせてくれるかい ? 」
「はい、先生。ぼくもお願いがあります。コンサートの讃美歌の3曲、聞いてもらえますか ? 正しく歌えている
か、教えてもらいたいです。」
残り15分、約束が交わされました。
「モーツァルトの『魔笛』“ 夜の女王の歌 ” を歌います。」
「凄いよ。ミーオ、その曲が歌えるのかい ? 」
「はい。病院の若先生の奥さんの名前、リーザさんって言うんだ。リーザさんが 『高い声が沢山出るぼくの声
にピッタリよ。』って、この曲を毎日丁寧に教えてもらったんだ。一番高い声は、喉を沢山広げて声をコロコロ
転がすように歌いなさいって。難しいけれど、毎日の練習とても楽しかった。ぼくの歌う曲で一番難しくて、大
切な曲なんだ。けれど、練習しても、練習しても、この曲だけはまだ一回も上手に歌えた事がなくて……、それ
でも、聴いてもらえますか ? ヴィルクリヒ先生。」
「もちろん ! 是非、聴きたい。」
先生を見詰める、少年夜の女王ミーオ。胸の前で上下に指を組み合わせ、すーっと背筋を伸ばします。
先生は、目で合図ピアノの伴奏を始めました。
♪ 〜 地獄の復讐が わが心に 煮え繰りかえる
死と絶望が 我が身を 焼き尽くす〜 ♪
………………
………………
♪ ワァ〜ハッハッハッハッハッハッハッハッハァ〜♪
アァ〜ハッハッハッハッハッハッハッハッハァ〜 ♪
………………
………………♪
ヴィルクリヒ先生は、8歳の少年が奏でるコロラトゥーラの超絶技巧に酔いしれました。
歌い終わったとたん、ミーオを思いっきり抱き締めました。「きゃっ」ミーオは、思わず小さく叫びます。
でもそれは、純粋なヴィルクリヒ先生の美しい歌声への喜びのお礼の印でした。
「素晴らしい、歌声をありがとう。」先生の声がミーオの耳に。
先生は体を離し、ミーオの頭を撫でてやりました。
「可愛い坊主頭の女王様。ごめんね、時間になってしまった。アンナが廊下で待っている。讃美歌は、明日聞こ
う。おやすみ。」
「おやすみなさい。先生。」
ミーオが廊下に出ると、アンナが迎えてくれました。
「ミーオ、疲れたでしょ。ゆっくり、お風呂で温まりなさい。」
広〜い、お風呂。お父さんのアレクセイではない男性と2時間も、狭いお部屋にいた事。体は、緊張してとても
疲れていました。お昼、リヒャルトと二人でレッスン室にいた時も。お湯に浸かっていると、コリコリの体が柔
らかくなって気持ちいい。ゆっくり、お風呂から上がって、鏡に顔を映します。「やっぱり、男の子になってい
る。なのに、どうしてリヒャルトはあんな事、言ったんだろう? 」胸に手を当てると、ムズムズ痒くって、何か
が引っ掛かっているみたい。「どうしよう。このままじゃあ、眠れない。」そう、思いながら廊下に出ると、ア
ンナが……
ミーオの悩みを鋭く見抜いてくれました。
「お昼、リヒャルトから言われた事、気にしているの ? 」
「えっ ? 」
「隣の、校長室で聞いていたの。ごめんなさい。少しだけ私の部屋へ来ない ? あなたに、聞いてもらいたい事
があるの。リヒャルトの事よ。」
ミーオは、アンナの部屋へ連れて行ってもらいました。
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