「……あ、起きちまったか」
「そりゃそうだよ」まるで悪戯の最中を見つかったようなアレクセイの顔が可笑しくて、ついつい
笑ってしまった。「こんなに明るいのに、寝てられるわけがない」
「ぐっすり眠っていると思ったんだがなぁ」「お生憎様」
彼のルバシカを羽織って並んで窓辺に立つと、窓ガラスを隔てても大気が冷たい。
「明るいね」そう、こんなに寒いのに、朝は狭い通りの上、筋向いの建物の屋根からはみ出すよう
に白く澄んだ光を溢れさせている。「うう、寒い」形ばかり震えて、彼の肩に身を寄せた。男の、
意外なくらい繊細な横顔を光が白く縁どっている。背中に手を回す。ここ、肩甲骨の下にある小さ
な黒子は、きっと彼自身も知らない彼女だけの秘密。
「風邪、ひくぞ」そういって彼女を抱き寄せた腕は、世界で一番温かい。
「いつまでいられるの?」それを尋ねてはいけない。もう、彼女も分かっている。
「タン、タ、タ、タン、タ、タ……」声に出して歌いながら、アレクセイは次の練習曲の譜面を書
いていた。ぐいぐいと勢いよく書くので、あちこちにペン先に溜まったインクが散っている。グリ
スマンの譜面の、銅版のようにきちんとした音符がよみがえった。
「ねぇ、思うんだけど」「ん?」「譜面って、暗号に使えるよね?」「暗号……?」
アレクセイのペンが止まった。「どうしたんだ、お前がそんなことを言うなんて?」
彼の目が暗い。思わず一瞬目を伏せる。だが、彼女はやめなかった。
「例えば、4拍子の曲の小節に、5拍子目が入っていたら……」
「曲によってはありうるだろう」「でも、普通そこに何か書いてあるでしょう?」
顔を伏せて、彼の目を見ないように言葉を継いだ。
「ピアノの曲に、グリッサンドでもないのに20音を超える和音があるのも……音名はCDEFGA
HC、と文字が当ててあるよね。それで、何らかの単語を綴ることもできるんじゃない? 例えば
だよ、拍子の余る小節は『情報アリ』の合図、音の多すぎる和音は、上から何音目と何音目は情報
の単語を綴るためのもの……」「お前……」
夫の手が、彼女の両肩をつかんだ。叱られた子供のようにうなだれながら、彼女は続ける。
「あなた……いつか言ってた。情報が漏れているかもしれない、同志のだれかれに見張りがついた
り、妙な邪魔が入ったりするって」
「そんなこと……聞いていたのか」「ズボフスキーが、ここにお茶を飲みに寄ったときに」
「盗み聞きとはいい趣味だぜ」軽口に紛らわせながら、だが肩の上の彼の指は痛い。盗み聞きなん
て! こんな狭いところで、こちらの耳に入らないわけがないじゃないか?
「お前が心配することは、ない」「そんな!」
心配するなって言ったって無理だ。政治犯として囚われ脱獄してきた夫を持つ妻が、心配しないで
暮らせるとでも思っているの? セレーノに、晴れやかに日々を送っていると?
「心配しなくていい。俺は、戻ってくる」彼はいつか、彼女に覆いかぶさって抱きすくめていた。
顔にかかってくる亜麻色の髪の中に、彼女はわずかな涙の匂いを嗅いだ。
抱き上げられ、愛撫されキスされ……それでも彼女は切れ切れに、低い低い声でささやき続けた。
「……そんな譜面を見たのはグリスマンの店……あなた方が、時々集合場所にしているカフェ・バ
クラチオンの筋向いの角……わざわざ手書きにした譜面……曲はチャイコフスキーの『舟唄』なの
に、そう書いてあるのに、拍の多い小節やら奇妙な和音が……グリスマンは、時々自分でめかし込
んで譜面を届けに行くって……」彼からのいらえはなかった。ただ。限りなく優しかった。
「彼は……グリスマンさんは、ひどく、ひどくアメリカに憧れていた……」
既に陽はフィンランド湾の向こうに沈み、筋向いの建物はまるで子供の切り紙細工のようにくっ
きりとした輪郭を深紅の光に浮かべている。
絃は呻いていた。涙を流して……いや、血さえ滲むような歌、溜息のような和音。弓は深々と沈
み、体の奥底から搾り出すような響きを生み、なのに旋律は柔らかく優しく胸に染みとおってくる。
指の力が必要な高音のパッセージは1オクターヴ下げた。耳の奥には、かつて弾いた高音部の切な
い嘆きが甦る。苛立ちが、昔の夢が、弓を操る右手に忍び込んでくる。
きしむ寸前で、絃は呻く。泣き声のような歌を響かせる。
なにが呻いているのか、弾いている彼にさえ分からない。かつてこの曲を、譜面どおりに弾いて
いた頃の自分を思い出すのがどうしてそんなに辛いんだろう? あれから彼は多くのものを失った。
だが、得たものも少なくなかったじゃないか。不当な運命だと思ったことがないわけではない。だ
が、俺は自分の意志を曲げはしなかった。それに今、目の前には彼女がいる……。
彼女は大きな瞳を見開いていた。そこからさらさらと、澄んだものを流していた。演奏が終わる
と彼女は立ち上がり、拍手の代わりに白い細い指でそっと彼の頬を撫でた。何も言わずに、ただ、
傷ついた小動物を扱うように、優しく優しく彼の頬を、髪を撫でた。弓を置いて、その指を包み込
んだ。ヴァイオリンを置いて、その肩を抱き寄せた。
「悲しいんだね……」「悲しい曲だからな」「あなたが悲しいんじゃないの?」
ちょっと微笑んで見せる。「譜面にある感情を、自分のものにして聞かせるのが音楽家の役割だろ
うが。役者というか……感情泥棒だな」「泥棒、なんだ」くすり。
「さっ、何だか冷えてきたね。お茶でも淹れようよ」するりと彼女が腕から抜け出した。金色の髪
が、虚空に華やかな霧を流す。「なんだ、自分の練習はサボる気か」彼も陽気に応える。「その演
奏を聴いた後で弾けっていうの?」笑い声が転がった。
確かに俺は悲しいのかもしれない、機械的に楽器をケースにしまいながらアレクセイは考える。
彼女の情報は同志を救うかもしれない。だが、傷つくものも生むかもしれないのだ。そのことを彼
女は知らないだろう。だが、俺は知らないわけでもないし、知らないでいることもできない……。