「D**は無事出国したぞ」電話機を置き、ズボフスキーがやっと頬を緩めた。
D**は、逮捕が近いと噂されていた作家である。耽美的な筆致で貧しい人々の暮らしを描いた作品は、宮廷と政府
周辺の評価だけが著しく低かった。それを、アレクセイたちが手を貸してフランスへと脱出させたのである。D**
は党員ではないが、ツァーリ専制に批判的だ。かつ彼の作品は国外でも評価が高く、シンパ(同調者)にできたら世
論の喚起力もある。そう主張し、亡命への協力を計画したのはアレクセイだった。  
 偽の拠点をカフェ・バクラチオンに置き、勿体をつけて変装したD**を出入りさせ憲兵やオフラーナ(公安警察)
の眼を引き付けておいて、同じ変装をした同志を駅に向かわせる一方、別の拠点に潜ませた本人を港へと送った。な
まじカフェ・バクラチオンの……グリスマンの情報を入手していた追っ手は完全に混乱し、列車がポーランドに入っ
た頃にようやく騙されていたことに気がつく有様だった。
 「うまくいきましたねぇ」若いリガリョフは、満腹になった子犬のような笑顔を見せた。
「こっちとしては、引き時が難しかったんだ。ばれた拠点を使い続けるのも危険だが、とっとと撤退して相手に『悟
られたか』と思われても警戒される。拠点を変えたのはD**の件がきっかけだと思わせられたら、奴ら仲間内で勝
手に疑心暗鬼になってくれるさ」
キリレンコが気取った手つきでクヴァスのカップを上げた。
「ユリウスの情報のお陰だよ。大した観察力と推理力だ」ズボフスキーが言葉を添える。
「正直、こんなに頭のいいひとだとは思わなかったな」軽く片目をつぶった。
「すごい美人だしね」キリレンコの一言に、「綺麗だよねぇ」とリガリョフが感極まったような声を出す。
「おいおい、いいのかアレクセイ、あいつらあんなこと言ってるぞ」
アレクセイは黙っている。

 グリスマンの店に「強盗」が入り、あるじを惨殺したのはその2日後だった。

 「……お前が殺したわけじゃない。憲兵かオフラーナの仕業だろう」
「憲兵だろうな。オフラーナのやり口はもっと洗練されている」アレクセイの声は冷静だった。だが、旧知のズボフ
スキーには分かる。自責の刃が今、彼の内臓をかき回している。                       
   「寝返ったと思われたんだろうか……」キリレンコが沈鬱な声を出した。
「遺体は酷い有様だった」リガリョフは元医学生なのだ。「拷問を受けたのかも」
「忘れろ、な」不思議なほどに優しい声音で、アレクセイがリガリョフを遮った。
「アレクセイ、お前そろそろ帰れよ。酷い顔をしているぞ」ズボフスキーが声を掛ける。
「こんな顔、恋女房に見せられるかよ」「じゃあ、酷くない顔をしろ」叱責に近いような声だった。
アレクセイは、もう一度部屋の中を見渡した。温厚で穏やかなズボフスキー、暢気で気持ちの優しいリガリョフ、
皮肉ばかり飛ばすくせに感激屋で涙もろいキリレンコ。彼女がスパイに気づかなければ、惨い死に様を晒したのはこ
の中の誰か…いや、彼自身だったのかも知れない。あるいは全員か。だが、彼女は言っていた。「あの人は、ひどく
ひどくアメリカに憧れていた……」。グリスマンはユダヤの名前だ。ポグロム(ユダヤ人襲撃)に怯えながらロシア
に暮らすより新世界に脱出したい、ユダヤの同胞達が業界で活躍しているアメリカで、新しい音楽を作り出したい…
…その望みが、彼をスパイに仕立てたのだろうか? アメリカ行き客船の2等切符で、オフラーナは彼を買ったのだ
ろうか……。「あれには言わないでくれ」「え?」「ユリウスには話すな、グリスマンのことを」
アレクセイは外套を手に立ち上がった。「分かったよ」ズボフスキーの声は優しかった。

 ふたりは肩を並べて、ネヴァ川の河岸を歩いていた。川面の白い氷に陽光が踊り、七色の反射がわずかに青みを帯
びた雲に明るい表情を添える。氷雪の都、サンクト・ペテルスブルクにも春が来ようとしているのだ。
 河岸の通りを西へ、フィンランド湾の方角へ歩くと、目前にトロイツキー橋が見えてきた。その奥には中央にクン
ストカメラ(人類学民族学博物館)の白亜の建物が、左手にはエルミタージュ宮殿の金と薄緑のパノラマが広がって
いる。夏の庭園の緑はまだ色薄いが、宮殿の華やかな外壁は一際明るく豪奢な輝きを誇っていた。右手はこの街の揺
籃の地ペトロパヴロフスク、寺院のキューポラ(丸屋根)に要塞の威圧的な影が伸びる。川の氷と、わずかに緑を帯
びたまだ色浅い青空の狭間、街はネヴァ川に浮かぶ白い蜃気楼のように、幻想的な光背をまとって見えた。
 「なんの、音?」彼女が尋ねた。「氷の流れる音だ」え、というように女は川を見た。 
「水が温かくなると氷は中央から割れていって、流氷になりフィンランド湾に流れてゆく」「流氷?」
「冬の間、はしけで船と港と往復していたけれど、もうすぐ直に接岸できるようになる。そうなったらやっと春だ」
「氷はどこに行くの?」女の目は川に注がれたままだ。
「さあ……バルト海を南下して、リトアニアを越えお前の故郷のドイツまで行くか……」
「新世界はどうだろう?」「……アメリカか」アレクセイは空を見た。浅い青の色は氷に似ている。
「……アメリカは遠い、からな」そう、新世界は遠い。彼にも、グリスマンにも。
「グリスマンさん、お店閉めちゃったんだね」唐突に、彼女が言った。
「……きっと行っちまったんだ」「そうだね……ティン・パン・アレーでピアノ踊らせてるんだ」
妻のナイーヴさが、憎らしいほどに愛おしかった。                             
   こいつがそばにいる限り、俺はこんな……戦いの惨さに慣れることはできないだろう。しょっちゅう声も出ないく
らいに傷つく羽目になるのだろう。だが、この十字架を失えば、俺はいったいどうなるのだろう……。      
「アレクセイ?」見上げた妻の目は、爛漫の春の色だ。
こいつに知らせたくないことはたくさんある……だが、あるいは彼女は知っていて、黙って胸のうちに秘めているの
だろうか......?

   岸にでよう、打ち寄せる波が                    
 ぼくらの足に口づけし、
 密やかな悲しみの星たちが
 ぼくらの頭上に瞬くだろう (プレシチェーエフ、亀山郁夫訳)

 そっと両手で顔を挟んで、彼は妻の額に唇づけした。
 春が、近くて遠い日のことだった。

ENDE