
先日、ネフスキー大通りを歩いていた時、あなたが写っている音楽コンサートのポスターを見かけました。そこには「マリ
ア・ミハイロヴァ」と、その名前が載っていました。
でも、名前よりも何よりも驚いたのは、ポスターに写っているその顔でした。私がかつてお世話をした女性にそっくりだっ
たのですから。
正直に申し上げますと、その女性のことを思い出したくないと記憶にふたをして16年、ひっそりと暮らしてまいりました。
けれど、人の記憶など自分でどうこう出来るものではありません。毎年この季節になると、否応なく思い出します。金色の
髪、碧い瞳の美しい女性を....。
私は彼女を「奥様」とお呼びし、お世話をしました。
私が奥様のお世話を任されたのは夏の暑い日のことでした。突然ユスーポフ侯爵家の使者から依頼されました。
奥様は預けられた先で、民衆に襲撃されかけているところを命からがら逃げて来たのです。預け先の親族や使用人は皆、亡
くなられたようです。そのことで、随分ご自分を責められておいででしたし、気を落とされていました。
私がお世話し始めた当初は、とてもふさぎ込んでいて、食事も殆ど召し上がりませんでした。急に泣き出すこともあり、か
なり精神的に不安定な様子でした。
それでも何とか自分を保っている事が出来たのは、お腹の子、つまりあなたがいたからだと思います。お腹の子が支えにな
って、何とか自分を失わず生きている....、といった感じでした。
時が心の痛みを少しずつ癒してくれたのでしょう。時間と共に気分も落ち着いて来たようでした。
お腹の膨らみが増し、頻回に胎動を感じることで、それが奥様の生きる気力になっていたのだと思います。お腹に手を当て、
まだ見ぬお子様にいろいろと話しかけている姿を何度もお見かけしました。それはそれは優しい表情をしておいでで、まる
で聖母のようでした。
産まれて来るお子様を、本当に心待ちにしていることが見てとれました。
奥様は初産でありながら、たった一人で出産しなければならない不安を1度も口には出されませんでした。革命家の妻とい
う立場上、様々な覚悟がなければ生きていけない状況だったと思いますが、この人は脆くはあっても、その本質は芯の強い
女性なのではないかと思いました。
私がユスーポフ候の命令で匿っていることは、固く口止めされていました。ところが何気ない会話をしている時に、つい口
を滑らせてしまい、奥様が知るところとなってしまいました。
折しもその日、奥様の手紙でおびき出された御主人が、ネヴァ河沿いを歩いて来ていました。
よほど慌てていたのでしょう。奥様は階段を降りる時、誤って踏み外してしまい途中から転げ落ちてしまいました。身体を
打ちながらも奥様は御主人を助けようと必死でした。
御主人は変装していましたが、奥様は一目で御主人だと分かったのでしょう。御主人の名前こそ出されませんでしたが、大
声で“来ちゃいけない、逃げて!!”と叫んでしまいました。その後のことは・・・、本当に目を覆いたくなるような光景
でした。
憲兵が一斉に銃を撃ち、御主人は奥様の目の前でネヴァ河に落ち、流されていったのです。
そのショックで奥様は気を失われましたが、同時に産気づかれました。私は医者を呼び、出産を手伝いました。
気を失われたまま奥様は、無事女の子を出産されました。
が、ユスーポフ侯爵の計画で、お子様が無事生まれても、しばらく奥様には伏せておくように言われていました。当分の間
は、“死産した”ことにしておくようにと。詳しい事情は分かりませんでしたが、命令だったので従いました。
でも、私も人の親です。どんな事情があろうと、我が子を1度も抱けずに引き離されるのはあまりに忍びないと思いました。
私は奥様の腕に、生まれたばかりの子を抱かせて差し上げました。
たとえ奥様、お子様、どちらの記憶に残らなくてもいい、この事実さえあれば....、そんな思いでした。
意識を取り戻した奥様は医師に聞きました。
“赤ちゃんは?”と。
医師も私も侯爵の命令通り、偽りの報告を告げました。
“死産だった。あまりにもかわいい女の子だったので神様が愛でられ連れて行ってしまった”のだと。
奥様は悲鳴をあげ、泣き崩れました。そしてその後は一切口を利かなくなってしまいました。すべての精神活動がそこで止
まってしまったかのように、感情も全く現さなくなってしまいました。大きな支えとなっていた大切な存在を亡くされたこ
とは、奥様に大きな失望を与えてしまったのだと思います。
その後、革命の混乱に紛れ、奥様はユスーポフのお嬢様とロシアを出ることになりました。大変急な事でしたので、大急ぎ
で偽装パスポートの写真通りのお姿にするために綺麗な金髪を切りました。そして、ほとんど身一つで出発なさいました。
私は我が身かわいさのあまり、誰にもこのことを言えずに今まできてしまいました。
あの時私がうっかり口を滑らせなかったら、奥様は御主人を亡くすこともなく、お子様を腕に抱くことができたはずでした。
たとえ侯爵の命令だったにしても、“お子様は生きている”と真実を告げていれば、奥様はあそこまで自分を失うことはな
かったはずです。私に勇気がなかったばかりに....。本当に、本当に申し訳ありませんでした。

老女はテーブルに頭がつくほど上体を曲げ、少女に、そして今は亡き女性に謝罪した。
しばらくの沈黙の後。
老女は使い古した鞄から小さな紙包みを出し、それを少女の前に置いた。
「これを....。今となっては奥様の形見になってしまいましたが....。自分でも何故かはわかりませんが、これだけは捨て
ることができませんでした。いつかこれを渡せる日が来ることを、何処かで予感していたのかもしれません。どうかこれが
少しでもお嬢様の心の慰めとなりますように....」
少女は包みを開いた。その瞬間“あっ”と小さな声を出した。
包みの中から少女と同じひと房の、光輝く金色の髪が束ねてあった。
母が生きていた証のもの。今まで母の話しを他人から聞いたり、写真を見たりしてはいたが、何処か母の存在を実感できな
かった。そこには母が生きていたという実体がなかったからだ。
少女の瞳から今まで堪えていたものが溢れ出た。大粒の涙が頬を伝う。
母の形見を両手で握りしめ、泣きながら声を出した。
「お母様....、お母様!」
伯父は初めて見る少女の激しい感情の表出に驚いた。しかし、すぐに彼女の気持ちを察した。そっと手を彼女の肩に置き、
なだめるように擦る。
話の内容が内容だけに、途中から少女は伯父への通訳ができなくなってしまっていた。
少女の代わりに初老の男性が片言のフランス語を交えながら大まかな通訳をしていた。
伯父は初老の男性の助けを借りながら、老女に感謝の言葉を告げた。
「これは義妹のものなのですね。よく保管して下さいました。何よりもこの娘の一番の宝物になると思います。ドイツにい
る私の妻も喜ぶことでしょう」
少女はしばらく泣いた後、乾ききらない瞳のまま周りを見ながら話し始める。
「私はお父様の命と引き換えに生まれてきたのですね。お父様は私とお母様のために....」
その後は、言葉が続かなかった。
伯父は彼女の気持ちを汲んでいた。彼女を諭すように優しく話し始める。
「君は決して彼の犠牲のもとに生れてきた訳ではないよ。僕は、君が彼の生まれ代わりなんだと思う。だからヴァイオリン
の才能を授けられた。そして彼女からはその容姿を授けられた。君は両親の深い愛情の元に生まれてきたんだよ。二人にと
って君は、希望の光なんだ」
少女は濡れた瞳を伯父に向け、小さくうなずいた。
伯父の言葉は、長年良心の呵責に苛まれていた老女の心にも届き、その痛みを癒した。
初老の男性が再び口を開いた。
「私もそう思います。彼は自分の命を犠牲にしたとは微塵も思っていないはずです。彼にとって祖国の解放のほかにもう1
つの夢は、おそらくヴァイオリニストになることだったと思います。君がその夢を継ぐことが、何より彼の魂が報われるこ
とになると思います。彼が成し遂げられなかったもう1つの夢を、どうか叶えてください....!」
力強い口調で少女に伝えた後、彼は再びいつもの優しい口調に戻り続けた。
「最後に私の同志の想いを伝えます」
――あの時、同志を裏切ってでも、二人を逃がしたことを後悔はしていません。何故なら、大切な姉と初恋の女性を守れた
のですから。
どうか彼らの娘に伝えて下さい。
あなたは多くの人の愛情を受けて生まれてきたのだと。
僕の兄は、二人にとって敵という立場の人間でした。しかし、彼女を愛し続け、その子どもも守ろうとした。
それぞれ立場は違いましたが、みな大切な存在を守りたかったのです。
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