―第2章―

                                                                                                 なつ様


                  私が君の父上と初めて会ったのは、彼が19歳の頃でした。
当時彼は、亡命先のドイツから戻ったところでした。まだまだ青臭い青年。しかし、若いけれど判断が早く統率力もあり、
仲間思いだったので周りからの人望が厚い、そんな人物でした。
私が先にボリシェビキに変わり、程なくして彼も仲間に加わりました。その後、モスクワの戦いに敗れ、私たちは捕らわれ
別々の監獄に収容されました。
別の監獄にいたので何とも言えませんが、それはそれは想像を絶するような過酷な状況にいたのは確かです。投獄生活の中
では精神を病んだり、生きる希望を失う同志を多く見かけました。強い意志を持っている彼でしたが、時には絶望から生き
る気力を失いそうになることはあったかと思います。
数年後、私が先に脱獄に成功し、次にアカトゥイから同志を脱獄させる計画がもち上がりました。そして年若い彼が選ばれ
ました。
6年間収容されていたアカトゥイ監獄から脱獄した直後、監獄は火災に見舞われ多くの同志が犠牲になりました。彼一人を
助けるためにアカトゥイに残った同志すべてが命を落としたのです。彼はその時から一層革命に対して、すべてをささげる
覚悟が強くなったような気がします。わき目もふらず一心不乱に革命に邁進していった、という感じでした。
彼はあまりに革命に対してストイックだったので、周りの同志からは一目置かれる存在でしたが、他方では近寄りがたさも
ありました。
もちろん色恋沙汰のことなど一切彼から聞いたことはありません。だから、ドイツに恋人を残してきたことを知った時は驚
きました。が、その一方で「良かった」とも思いました。一人の人間として、「人を愛する」と言う当たり前の感情を持っ
ていたことにホッとしたのです。

初老の男性はここまで話すとテーブルのうえのウォッカをまた1口飲んだ。

母上については、かつて彼女と一緒に暮らしていた私の同志から聞いた話をお伝えします。



異国の金髪の少女と初めて会ったのは、僕が8歳の時でした。彼女が怪我をして我が家に運ばれて来たのです。軍人だった
兄の部下が彼女を運んできました。女性なのに男性の恰好をしていることに不信を持った兄は、職業柄彼女をドイツのスパ
イではないかと疑いを持ったようでした。
彼女を始めて見た時、男性の恰好をしてはいましたが、なんてきれいな人だろうと、子ども心に思いました。
彼女の怪我はすぐに良くなったのですが、そのまま我が家に滞在していました。詳しい事情は分かりませんでしたが、兄の
命令で彼女は軟禁されていたようです。
どこで知ったのか、姉の友人が彼女の存在を知り、姉に会いに来ました。その友人が来訪した時、僕は2人の話をこっそり
聞いてしまいました。彼女が誰か大切な人を追いかけて、ロシアまで来たのだと……。          
その直後彼女は1度邸から脱走したようですが、すぐに兄の部下に捕らわれ戻ってきました。何故かそれ以降は大きな騒ぎ
を起こすことなく、静かに邸で暮らしていました。
僕はまだ子どもだったので、姉がもう1人増えたような感覚でした。実際彼女にはよく遊んでもらいました。そして一緒に
ロシア語の勉強もしました。
彼女はドイツの音楽学校にいたと言っていました。よくピアノを弾いてくれたり、音楽学校の話をしてくれました。その音
楽学校には、不思議な言い伝えのある窓があったこと。その窓の伝説の話しをしてくれました。彼女は僕の目の前に居るの
に、その窓の伝説の話する時は遠い眼をして、まるでここにいないかのようでした。

ある日、突然憲兵が我が家に来て彼女を連れて行きました。すぐに兄が彼女を引き取りに行きました。その帰り、うちの馬
車が暴動に巻き込まれ、彼女とはぐれてしまいました。
その日の遅くに気を失った彼女が我が家に運ばれて来ました。反逆者を追って憲兵が目星を付けたビルに行くと彼女が一人
そこにいたそうです。憲兵が彼女に尋問している最中、ビルの窓から落ちたようです。後から憲兵に聞いた話によると、自
分から飛び降りたようにも見えたそうです。
彼女が目を醒ました時、彼女はそれまでの記憶のすべてを失くしていました。
もうドイツの話をすることも、不思議な窓の伝説の話しも、ピアノを弾くこともなくなりました。
それからは、僕も姉も彼女とは家族同様に接していました。
記憶を失う以前は、兄に対して鋭い瞳を向ける気の強い一面を見せていた彼女でしたが、
記憶を失ってからは気の強さは微塵もなくなり、その瞳は宙をさまよっているかのようでした。
いつも吹雪に怯えるようになり、兄を頼るようになりました。兄は彼女を大切に護っていました。そして多分彼女を愛して
いたのだと思います。彼女の身の安全と幸福を一番に願っていた。だからこそ、戦争が始まる前に彼女を祖国に帰したかっ
たのだと思います。

ところが何か手違いがあり、ドイツには帰っていなかったようです。
僕はそのことを知りませんでしたが、兄はボリシェビキに送った部下からの報告で、比較的早い段階で知ったようでした。
彼女は兄とは対極の立場の人間になっていました。それでも兄の彼女に対する愛情は変わらなかった。その後も部下に彼女
の状況を報告させていたようです。兄は兄なりに彼女をずっと見守り続けたかったのでしょう。

7年間一緒に暮らしていて、僕が知っている彼女は、気が強く激しい一面がある一方で、繊細で脆く、人の気持ちを察して
行動できる優しい女性でした。
そして、記憶を失くす前も後も変わらなかったのは、深い悲しみを抱いた瞳です。とても綺麗な碧い瞳。
愛する人と再会して、その悲しみが少しでも軽くなり、彼女が幸福になることを願わずにはおれませんでした。

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