
遠くから懐かしい声が聞こえる。
「ユリウス」
母の声だった。生前と変わらない、決して聞き間違えるはずのない母の声。
「母さん!!」
母に抱きついた。後は言葉にならない。ただ母にすがりついて泣きじゃくった。
母とは、本当に突然の別れだった。それだけに、なかなか母の死を受け入れられなかった。
あの時、一緒に馬車に乗って行ってしまえば、母を亡くさずにすんだのだろうか…?
ひとしきり泣いたユリウスは、少し落ち着きを取り戻し、周りを見渡した。
そこは、最後に母と触れあったあの馬車の中だった。馬車の中はとても温かい。
母がユリウスの手を握りながら優しく語りかける。
「ユリウス、母さんの元に生まれて来てくれてありがとう。あなたが生まれて来てくれて、本当に幸せだった。あなたが
いてくれたから、母さんは生きて来られたのよ」
語りかける母の瞳が濡れている。ユリウスも瞳を潤ませながら黙って聞き続けた。
「本当は、お父様はあなたの性別に気づいていたのかも知れないわ。
ご自身の命が長くない事にも気づいていたのかも知れない。だから、私たちを呼び寄せた。考えてみれば、15年間も放っ
ておいたのに、急に呼ばれたことが不思議だったの。きっとお父様は、あなたが男の子でも女の子でも、どちらでも良か
ったのかも知れない。ただ、自分の子どもであるあなたに会いたかったのだと思うわ…」
それが本当かどうかは分からない。けれどその言葉で、ユリウスは救われた。“産まれて来ても良かったんだ”と、初め
て自分という存在を肯定した。瞳から涙があふれ、握り合ったお互いの手に落ちていく。母は娘の涙をそっとぬぐった。
さらに言葉を続ける。
「今までごめんなさいね。どれだけ謝っても足りないけれど、これからはあなた自身の人生を生きて。
自分を信じていきなさい。誰よりもあなたの幸せを願っているわ」
「母さん、ぼくは本当の自分に戻ってもいいの?」
母は何も言わずに優しく微笑み頷いた。
「次からその涙は、愛する人に拭ってもらうのよ」
だんだん母の輪郭がぼやけていく。
「待って!!行かないで、母さん!!」
消えかかる母に向かって叫ぶ。
−やっと会えたのに。もっともっと抱きしめていて欲しいのに!
「ユリウス、ゲオルクスターラーを…」
「ゲオルクスターラーを、何?」
そう聞き返したところで、母の姿は完全に消えてしまった。

「母さん!!」
自分の声で目が覚めた。
−夢だったんだ…。
頬が濡れていた。向かいの男性に気づかれないように、そっと拭った。
夢の中の母の言葉を反芻する。
自分の人生を生きてもいいと言われたことが、何よりも心に響いていた。
嘘でも、夢でも、何でもいい。母に、ずっとずっと言って欲しかった言葉だった。
−やっと解放された…。
初めて自分自身で選択したこの道のりを、母が認めてくれ、後押しをしてくれているように思えた。
国境手前で、向かいの男性は汽車を降りた。一言も話さなかった彼が、降り際にユリウスに声をかけた。
「良い旅を、お嬢さん」
不意に声を掛けられ、しかも性別まで見通されていたことに驚きながらも、ユリウスは笑顔で男性に返した。
「ありがとう」
心をこめて、祖国で話す最後のドイツ語を。
汽車は再び動き出す。
レールの上を、ガタンゴトンと音を立てながら進んでいく。終着駅に着けば、そこからは自分の足で歩き出さなければな
らない。
もう、レールはないのだから。
そっとゲオルクスターラーに触れる。触れた自分の指よりも、それは温かかった。
母と最後に触れあったあの時の…、馬車の中の母の手と同じくらい温かかった。
←もう一つのお話
←BACK