ゲオルクスターラー・T

                                                                                            なつ様 

レーゲンスブルクを出る時から降っていた雨。ここ、ミュンヘンに着いてもまだ降り続けていた。                    

レーゲンスブルクの田舎駅と違い、ミュンヘンは都会だった。たくさんのホーム、国外に向けて発車する汽車も多い。
サンクト・ペテルブルクまで、いくつも汽車を乗り継がなければならない。
発車時刻より早めに着いてしまったため、コンパートメントは何処も空いていた。扉を開けて中に入る。まだ濡れている
コートを掛け、座席に腰掛けた。ふぅ、と小さくため息をつき、ぼんやり外を眺めた。ホームはうす暗い。窓ガラス越し
に外を見ているつもりが、いつの間にか窓に写る自分の顔を見ていた。
−母さんに似てきた…。                                           
  窓に写る自分を見ながら、そう思った。男装をしていても、顔まで性別を偽ることはできない。
もう、16歳。性別を偽るには無理があった。アーレンスマイヤ家で男と偽って暮らすには、限界がきていた。

母に似たのはその容姿だけではなかった。
「オルフェウスの窓」で出会った男性がいること。そして母と同じように、この恋に殉じようとしている事も…。

襟もとで何かが光った。自分の襟元を見ると、母の形見のゲオルクスターラーだった。そっとペンダントに触れる。ひん
やりとした感触が手に伝わった。

−母さん、ぼくはロシアに行くよ。愛する人の祖国へ。…でも、本当は怖いんだ。だから、ぼくを守って!
ゲオルクスターラーを握りしめながら、小さな声で呟いた。
ガラガラと音がして、年配の男性がコンパートメントに入ってきた。彼は、斜向かいに腰掛けた。男性はユリウスを気に
留めるでもなく、座った早々に新聞を読み始めた。
男装をしていて良かった、と思った。男装のおかげで身の危険はかなり防げる。それに、変に気を使われずに済む。

定刻通りに汽車は出発した。ガタンゴトンと大きな音を立て、どんどん駅から遠ざかっていく。期待と不安、そして一筋
の希望をともに乗せて。
窓の外は漆黒の闇の中。
規則的な汽車の振動は心地よく、程良く緊張の解けた彼女を眠りの世界へと誘う。



遠くから懐かしい声が聞こえる。                                                                              
「ユリウス」
母の声だった。生前と変わらない、決して聞き間違えるはずのない母の声。
「母さん!!」
母に抱きついた。後は言葉にならない。ただ母にすがりついて泣きじゃくった。

母とは、本当に突然の別れだった。それだけに、なかなか母の死を受け入れられなかった。
あの時、一緒に馬車に乗って行ってしまえば、母を亡くさずにすんだのだろうか…?

ひとしきり泣いたユリウスは、少し落ち着きを取り戻し、周りを見渡した。
そこは、最後に母と触れあったあの馬車の中だった。馬車の中はとても温かい。
母がユリウスの手を握りながら優しく語りかける。
「ユリウス、母さんの元に生まれて来てくれてありがとう。あなたが生まれて来てくれて、本当に幸せだった。あなたが
いてくれたから、母さんは生きて来られたのよ」
語りかける母の瞳が濡れている。ユリウスも瞳を潤ませながら黙って聞き続けた。
「本当は、お父様はあなたの性別に気づいていたのかも知れないわ。
ご自身の命が長くない事にも気づいていたのかも知れない。だから、私たちを呼び寄せた。考えてみれば、15年間も放っ
ておいたのに、急に呼ばれたことが不思議だったの。きっとお父様は、あなたが男の子でも女の子でも、どちらでも良か
ったのかも知れない。ただ、自分の子どもであるあなたに会いたかったのだと思うわ…」
それが本当かどうかは分からない。けれどその言葉で、ユリウスは救われた。“産まれて来ても良かったんだ”と、初め
て自分という存在を肯定した。瞳から涙があふれ、握り合ったお互いの手に落ちていく。母は娘の涙をそっとぬぐった。
さらに言葉を続ける。
「今までごめんなさいね。どれだけ謝っても足りないけれど、これからはあなた自身の人生を生きて。
自分を信じていきなさい。誰よりもあなたの幸せを願っているわ」
「母さん、ぼくは本当の自分に戻ってもいいの?」
母は何も言わずに優しく微笑み頷いた。
「次からその涙は、愛する人に拭ってもらうのよ」

だんだん母の輪郭がぼやけていく。
「待って!!行かないで、母さん!!」
消えかかる母に向かって叫ぶ。
−やっと会えたのに。もっともっと抱きしめていて欲しいのに!
「ユリウス、ゲオルクスターラーを…」
「ゲオルクスターラーを、何?」
そう聞き返したところで、母の姿は完全に消えてしまった。



「母さん!!」                                                                                                
自分の声で目が覚めた。
−夢だったんだ…。
頬が濡れていた。向かいの男性に気づかれないように、そっと拭った。
夢の中の母の言葉を反芻する。
自分の人生を生きてもいいと言われたことが、何よりも心に響いていた。
嘘でも、夢でも、何でもいい。母に、ずっとずっと言って欲しかった言葉だった。
−やっと解放された…。
初めて自分自身で選択したこの道のりを、母が認めてくれ、後押しをしてくれているように思えた。

国境手前で、向かいの男性は汽車を降りた。一言も話さなかった彼が、降り際にユリウスに声をかけた。
「良い旅を、お嬢さん」
不意に声を掛けられ、しかも性別まで見通されていたことに驚きながらも、ユリウスは笑顔で男性に返した。
「ありがとう」
心をこめて、祖国で話す最後のドイツ語を。

汽車は再び動き出す。
レールの上を、ガタンゴトンと音を立てながら進んでいく。終着駅に着けば、そこからは自分の足で歩き出さなければな
らない。
もう、レールはないのだから。

そっとゲオルクスターラーに触れる。触れた自分の指よりも、それは温かかった。
母と最後に触れあったあの時の…、馬車の中の母の手と同じくらい温かかった。


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