ゲオルクスターラー・T



―― 父よ ――

                                                                                            なつ様 

レーゲンスブルクの街を出た時から雨は降り続け、ここミュンヘンもまた雨だった。                                  
出発時間より、かなり早めに着いてしまった。広い構内を歩き、夜行列車のホームを探す。
レーゲンスブルクの田舎駅とは比べものにならないくらい、ミュンヘン駅は大きく人も多い。乗り換えのホームに着くと、
汽車はすでに停まっていた。
コンパートメントのドアを開け、荷物を置き、一息つく。大切なクラウスのストラディバリは、すぐ手元に置いた。
出発までの時間、汽車の窓ガラスに映る自分の姿をぼんやりと眺めていた。
母に似てきた…、と思った。金髪も碧い瞳も母親譲り。そして、オルフェウスの窓で運命の恋人に出会ったことも。
何気なく襟元に手を当てると、丸いものに手が触れた。母の大切な形見、ゲオルクスターラ−だった。それを引き出し右手
で包み込んだ。

――かあさん、ぼくを守って。彼に会えるように一緒に祈って。

早めに乗ったせいか、コンパートメントには先客がいなかった。このまま一人かな……と考えていた時に、高齢の男性客が
コンパートメントのドアを開けた。
彼はユリウスに挨拶するでもなく、向かいの空いた席に腰掛けた。

ここから未知の世界に出発する。期待と不安、一筋の希望。そのすべてを乗せて、列車はゆっくり走り出した。

高齢の男性は新聞を読み始めた。自分の世界に没頭しているようだ。
――こういう時、男装をしていると便利だな。変に気を使われなくて済む。  

多分、父親くらいの年齢だろう。ユリウスの警戒心はかなり低くなった。
チラリと男性を見ながらふと考える。
――お父様は、本当はどんな人だったのだろう?ぼくが会った時は、もうすでに寝たきりの老人だった。何の力もなく、た
だそこに寝かされているだけの老人。

その姿を初めて見た時、15年間、会ったこともない父親を恨み続けてきた自分が虚しく思えた。今では何の権力を持たない
父親の姿を目の当たりにして、それまでの憎しみや恨み、嫌悪感は何処かに飛んでいった。
――本当に恨んでいたのは、お父様じゃない。本当は……。                            
   慌ててユリウスはその思考を止めた。物心ついた時から、ずっと心の奥で思っていたことだ。けれど、決して言えなかった
こと。

お父様が亡くなっても何とも思わないと思っていた。お姉さまたちのように、平然としていられると思っていた。自分の眼
から惜別の涙など流れないと思っていた。だのに、自分の意思に反して涙が流れていた。
あの時、初めて思い知った。本当は父親に愛情を持っていた事を……。そして、父親からのの愛情を求めていた事も。

――お父様。あなたにとって、ぼくは何だったのですか?アーレンスマイヤ家の後継ぎだから引き取ったのですか?   
 
ガタガタ、ゴトゴト。列車の心地よい振動は、緊張感の緩んだユリウスの眠りを誘った。
遠くから誰かの声がする。男性の声。次第にはっきり聞こえてきた。



「ユリウス」
聞き覚えのある声。声の主の方に振り向くと、そこには寝たきりの姿しか知らなかった父親が立っていた。
「お父様……!」
驚きのあまり動けないユリウスに父親は語りかける。
「ユリウス、よく来てくれたね。ずっと会いたかった。成長した姿を見られて嬉しかった」
父親のこの言葉に、ユリウスはさらに驚いた。信じられなかった。自分に対して愛情のかけらも無いと思っていた。父親が
自分に会いたがっていたなんて!
涙が頬をつたう。父の言葉が純粋に嬉しかった。
「ユリウス、おまえが後継ぎだったから引き取った訳じゃない。おまえはかけがえのない私の子どもだ」
「お父様!」
「ありがとう、ユリウス」
アルフレートは微笑んだ。ユリウスは、父親の笑顔を見るのは初めてだった。
ユリウスが何か言おうとした時、そこに父親の姿はもうなかった。



「お父様!…父さん!!」
自分の声で眼が覚めた。
汽車は変わらず走り続けていた。向かいの男性は、彼女の様子を気に留めるでもなく、新聞を読み続けていた。

――ああ、夢だったのか……。
夢でも、嘘でも、何でもいい。ただ一言でいい、そう言って欲しかった。
謝罪の言葉ではなく、ただ自分の存在を認めてくれる肯定の言葉が欲しかっただけだ。

窓ガラスに、ゲオルクスターラーが光った。凹凸のあるそれに触れながらユリウスは思った。
ゲオルクスターラーが見せてくれた夢だったのかも知れない。母の形見のゲオルクスターラー。
ユリウスはもう1度、この大切な形見をギュッと握りしめた。
ENDE
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