街は眠る、もやに包まれて/街のあかりだけが瞬いている…                                        
遥か彼方、ネヴァ川の向こうに/夜明けの光が見える
あの遠くの方に映る光にも/このきらめくあかりの中にも
隠れているのは新たな目覚めだ/私の悲しき、喜びなき日々の
(A・A・ブローク「街は眠る」より、藤井宏之訳)

凛々しい近衛将校に土の付いた木箱はいかにも不似合いである。しかし、レオニードの眼差しは暗いままだ
った。所在無げに木箱を抱えたロストフスキーを見、木箱を見ると、ぼそりとつぶやきのような言葉が漏れた。
「ロンドンからの荷か」「はい」わずかな間があく。躊躇いとも呼べないほどの須臾ののち、レオニードは
口を開いた。「花に罪はなかろう」

<1905年10月>
夜明けは遅い。
台所の方では、早くも人のざわめきが漏れていたが、星々はいまだ氷の飾り物めいた貌を高々と夜空に掲げ
上げていた。エフレムはバケツを抱え、温室に向かっていた。「……!」
軽いドレスの上に、つややかなラシャのコートをまとった人影が立ち上がった。 
  「ヴェ……お嬢様……」「まだ誰も来ないわ。ヴェーラと呼んでいいのよ」
温室はまだ土がむき出しの状態だ。若者は、片隅に集めたスコップや鋤の物陰に娘を導く。
「まったく何だって……この寒いのに」「寒くなんてないわよ」娘はコートの袖を持ち上げる。
「ここは第一温室じゃないの」「まだ温室とは呼べないですね。暖房装置もないし」
「でも、これから整えるのでしょう? やっと、ね……」
若者は軽くため息をついた。戦争と、戦争の招いた騒擾は収まる気配を見せていない。ロシア帝国は、長い
間の膿を詰め込んだパンドラの箱に手をかけてしまったのだ。
「若様がなんとおっしゃるやら」「お兄様だってもう反対はなさらないわ、理由がないもの」
「世間の目というものもありますよ」「お兄様が気にしているのはそちらじゃないわ」
娘は少し真面目な顔になった。「本当は、戦時だろうがなんだろうが温室なんかお嫌いでしょうね」
「ああいう性質の方だから」「でも、貴方言ったでしょう? 植物の研究は有益で意義深いと。イギリスが
植民地経営に成功したのは、植物の研究に力を注ぎ、新しい特産物や医薬の生産に結び付けたからだって」
娘は屋敷の方にちらりと視線を走らせた。「有益なことなら、反対はなさらないわ」
「貴方話してくれたわね。Lilium Auratum。日本のヤマユリは目が覚めるように美しいけれど、鱗茎は澱粉
質を豊富に含み、現地では食料としても使われると……」
それは、二人が呪文のように繰り返してきた言葉だった。庭師と令嬢。本来指を触れることもないはずの二
人は、温室を作るという夢を隠れ蓑にも、拠り所にもしていたのだった。
「戦争は終わったのよ、エフレム……」でも革命は、と言いかけて若者は言葉を取り繕う。
「でも騒擾は終わっていない……」「いつかは終わるわ」娘は若者の頬に冷たい手を当てた。
「皇帝陛下は近いうちに事態を収拾する宣言*をお出しになるわ。誰もが認めるような」 
頬を紅潮させた娘は、デルフォイの予言の巫女のようにも見えた。
「戦争はいつも勝つとは限らないものよ。大事なのはそのあと。私のおじい様が従軍したクリミヤ戦争でも
ロシアは負けたけれど、アレクサンドル2世陛下はそれを国政を立て直すきっかけとされました」
若者はかすかに微笑んだ。この娘の真面目さ、ひたむきさは彼にとっては何より愛しい。
「ああ、そうだね」「きっと良くなるのよ、いろいろなことが」
沈黙が落ちた。戦争が終わった。あるいはヴェーラの言う通りかもしれない。現在政権を担っているヴィッ
テは自由主義的な政治家だし、これを機に大幅な民主化が行われて彼らの党も合法化され、そして……。 
                                       
  「エフレム?」驚くほど近いところで彼女の声がした。「貴方、大学には戻らないの?」
苦い笑みは見られただろうか? 「金がないことに変わりはないよ」
そうだ、彼はこの娘を偽っているのだ。偽りは苦い胃液のように、胸に大きく広がった。
「奨学金があるのではないの?」父が死に、無一文になり、植物学を専攻していた大学を辞めた。植物を扱
う仕事がしたかったから、敢えてインテリのしない庭師を選んだ。そう話した。
「もういいんだ」それは一部分だけの話だった。ギムナジヤの教師だった父はただ死んだのではない。ハイ
ネを教材にしようとして咎められ、自由主義者の烙印を押され職場から追放された。友や親戚にも裏切られ、
酒におぼれ病み衰えて死んだ。彼自身、拷問まがいの取り調べを受けた。大学を辞めた時、彼は己のすべて
をかけ、この国と戦う決意をしたのだ。皇帝側近の近衛将校の家庭に潜入するときに庭師を選んだのは、単
に合理的な判断だったと思っていた。
「いろいろなことが変わるのよ……わたしたちも、ね」彼女の境遇も変わるのかもしれない。留守がちだっ
た兄が家に戻り義姉とよりを戻せば、幼い弟の世話のため家にとどまっている彼女はどうなる? ベストゥ
ジェフ女子大に進学する? 留学する? それとも結婚する……?   
「エフレム、私母方のおばあ様から相続したお金が少しあるのだけれど……」
庭師と令嬢が結婚するのは夢物語だ。だが、ペテルスブルク大の博士ならどうだ? 優秀な若者を貴族が援
助して、娘と結婚させるのはまんざらない話ではない……。 
「もう、いいんだ。お情けならいらないよ」ヴェーラはびくり、と顔をこわばらせた。彼女もまた誇り高い。
何か取り繕うようなことを口にしようとして、やがて唇を引き締めた。代わりにぽつり、と言った。   
「悪かったわ。もう言いません」
「……ごめん。言い過ぎた」。それだけ言うと、エフレムは黙ってスコップを握り、温室を出て行った。



*事態を収拾する宣言=「十月詔書」。革命後の混乱の収束のため、ヴィッテ、オボレンスキーが起草、ニ
コライ2世の名で発布。国会(ドゥーマ)の権限拡大、言論の自由などを約束したが、皇帝を始めとする保守
派の反動を呼んだ。
                                



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