夜、恐怖が眠っていて、                                                                  
街が霧の中に隠れている間に
おお、神の手にはなんとたくさんの音楽が存在していることか
なんというすばらしい音がこの世に満ちていることか

このようなバラが輝いて、咲き乱れているとしたら
人生の嵐なんて、なんだと言うのだ、
夕日が穏やかに赤々と輝いているのに
人々の涙なんて、なんだと言うのだ(A・A・ブローク「音楽」より、藤井宏之訳)

<1904年7月>
「じゃあ、ここがよみがえるのね?」割れたガラスから零れる陽光が、娘の髪に踊る。
「完全に昔通りというわけにはいかないけどね。ここで仮装パーティをしたいわけじゃないだろう?」
「まぁそうだわね。お義姉さまはどう言うか分からないけれど」
「華やかなことが好きな方なんだね、皇族の姫君は」
彼女は少し首をかしげた。美しい義姉がファッションや社交界の集いに熱心なのは確かだけれど、華や
か好みというのとはちょっと違う気がする……。「よくわからないひとなのよ」
「戦争中だからね。今すぐにとはいかないだろうけれど」「それはそうだわ」
兄の厳しい顔が浮かんだ。と、同時に不思議な可笑しさがこみあげてくる。結婚以来の兄のしかめっつ
らしい重鎮然とした振る舞いは、妹の目から見れば少々こけ威しじみていた。
「お兄様は最近、一人でロシア全帝国を背負っているような顔をなさってますものね」
「笑い事じゃないよ」若者は咎めるかのように暗い声を出した。「戦争なんだよ」
軍人の家の娘である。これ以上、兄と戦争を茶化すのはいくらなんでも不真面目すぎるとは分かってい
た。だが、盛りの夏のキラキラした陽光に囲まれ爽やかな緑を含んだ柔らかな風に髪の毛をそよがせて
いると、ましてやその自慢の黒髪を優しく美しい(だって、よく見ると先日の舞踏会で踊った伯爵様よ
りもずっと貴公子らしい顔しているのよ!)若者が、微笑みと賛嘆の色を浮かべて眺めているのだから、
16の娘が硝煙の臭いでなく甘い花の香りに包まれる気分になるのも無理はなかろうというものだ。むき
出しの土の上でくるりと回ると、刺繍を施した白いモスリンが花びらのように広がった。
「考えても見て! 来年の今頃、ここにはフランスの大きな薔薇や東洋の豪華な百合が咲き乱れて、人
の顔ほどもある大きな花がゆらゆらと揺れて……!」
生真面目なこの娘しか知らない学校友達なら驚いたことだろう。ヴェーラ・ユスーポヴァが、こんなに
甘やかな愛らしい表情をするなんて! 若者の頬がゆっくりとゆるんだ。
「困ったお嬢様だ」娘の瞳が陰る。「不真面目な女だと思っている?」
不真面目なのは僕だ、と若者は思う。こんなはずじゃなかった。こんなことがあっていいはずがない。
大陸の東の端では愚かな皇帝のために無残な戦争が続いているというのに。            
  なのに、そうだ、今、僕は幸せなんだ…柔らかい唇がそっと寄り添い、とけあった。「なんという素晴
らしい音がこの世に満ちていることか……」「ブローク……『音楽』ね?」荒れた、インテリゲンツィ
ヤのものではない手に、娘は細い首筋を委ねる。「私たちの結びの神ね……」

<1904年4月>
春はまだ遠い。だが、陽の光はかすかに温もりを帯び、見上げる空にはひと刷毛白粉を掃いたような柔
らかい甘い表情があった。
ヴェーラは、庭の片隅にある古い温室の中で過ごすのが好きだった。
彼女の祖母の時代、温室でパーティを開くのが流行り、ペテルスブルクの金持ちはこぞって温室を作り
濃厚な美しさを持つ南洋の植物を揃えたという。謹厳な父の代になって温室は打ち捨てられたが、その
廃墟然とした表情はくすんだ優雅さを湛え、物語の舞台のような雰囲気があった。
兄が高貴な美しい妻を迎えていた。ただでさえ、若い娘の人生は複雑だった。母の時代、祖母の時代と
は違った生き方が、娘たちの視野には入っていた。淑やかに目を伏せて、舞踏会で夫を捜し結婚し家庭
を作り……一方でわずかずつ開きつつあった高等教育の門戸を叩き、医者や教師、研究者の道を選ぶ娘
たち……軍人の娘の目にも鮮やかに颯爽としてみえる女性たちもいた。さらに、職業経験やインテリの
若者との交流を通して革命に身を挺する令嬢たち……おそらくヴェーラにはあり得ないだろう、だがそ
のために不思議な光芒に彩られて見える生き方がある。気負い、選択、自信喪失、寄る辺のなさ……踏
み出そうとする靴のつま先に霜の冷たさを感じて引っ込める。遠い春の気配を探りながら、時代も彼女
も可能性の中で揺れていた。
小さな革装の本が手に触れて、彼女は眉をひそめた。自分のお気に入りの場所に出入りする者が他にい
るのが気に食わない。だが騒ぎ立てれば、秘密の時間を奪われるのは彼女自身もご同様なのである。 
侵入者を罰する気分でページをめくった。「A・ブローク詩集」。
「予言の恐ろしさを包み隠そうと/鳥の美しい顔は愛に燃えている/だが、恐ろしい予言を告げ続ける
/そのくちばしは血に染まるのだ(「予言の鳥ガマユーン」)。不吉な、しかし暗鬱に輝く美しさを持
つイメージに、ヴェーラは息を呑んだ。
「あ、それ……」と誰かの声がした。はっとして目を上げると、背の高い庭師の若者が、温室の失われ
た戸口に立って、こちらを眺めていた。

<1917年8月>
列車を包む野は、すでにフィンランドだ。黒い鉄の塊は、放たれた矢の速さと一途さで彼女の育った地
を後にしようとしていた。温かい涙をただただ頬に滴らせながら、彼女はもう東を見ようとはしなかっ
た。機械の振動に身を委ね、己の涙の温もりを感じながらヴェーラは今一度、金色の星を戴いた純白の
百合の、あの圧倒的な甘く優しい香りを思い出していた。
「受け入れよ、宇宙の創造主を/血の果実を、苦しみを、墓標を/情熱のあわ立つ最後の盃を」
(ブローク『音楽』)
FIN

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