|

希望…? て ?

【 3 】

鈴さま作
その赤ん坊の名は、ミーナ。 意志が強く 愛と言う意味もある ドイツ名。
あやしているのは、この病院の大先生と若い看護婦リーザ。
「まさか、この子をあのイワンがここへ連れて来るとは ! 立派な青年になっていた。
もう、何年になるかな? 双子して、泣きながらここへやって来た。『父ちゃんが死にそうだ。大先生を呼んでいる。』
私は 侯爵家の主治医に、軍医も兼用していた昔は。軍医の方は合わなくて退いた。後輩の彼は下町の町医者に。
彼は息を引き取る間際まで、残していく患者達の事を心配し私を呼び寄せたんだ。人々の診察を引き継いで欲しいと。
ピエールと二人して下町の往診に行ったよ。皆、メリコフの事が大好きで、亡くなった事を悲しんだ。
数日後、双子の元へ行ったら、家の中はもぬけの殻だった。それから 行方知れず……。
私はね、いつも片手間なんだよ。リーザ、今度の事も。」
リーザは赤ん坊を見詰めながら。
「私も一緒。大先生、一言声をかければ 『赤ちゃんを助けに病院へ戻りますって。』 自分ばかりを責めないで。」
「あぁ、リーザ。『死産だった。』と聞かされた時の母親の、あの悲しみの叫び声。頭から離れない。泣き続け、泣き続
け、その後、ヴェーラさんに連れられ、故郷のドイツへ帰って行ったと、お喋りのお手伝いが教えてくれた。」
「大先生、生きていれば会える ! お母さんに。立派な少女に育てましょ。二人して、ねっ ! 」
赤ん坊の大きな目が ウルウル 潤み…でも、涙は頬を流れず退いていきます。
「不思議。この子 泣かないの。涙は、お父さん捜すのに全部使っちゃたのね。ふふっ。」
赤ん坊は 「ケケケ ケッ ケケッ」奇声を。
リーザは笑いながら 「ケケケは、おむつ代えてね。ほうら、ベチャベチャ。あらあら、ウンチもね。ふふっ。」赤ん坊
は大先生を見詰め、「ククク クッ ククッ」気持ちよくって嬉しそう。
「赤ちゃん、大先生が大好きよ。」「こんな私を……ありがとね。」「ククク クッ ククッ」リーザは思案顔で「リュ
ドミール、遅いわね。もう、何してるのかしら ? 」
その頃。リュドミールは 下町のあの家族の家にいました。 昨夜のお礼を言う為に、そして。
「ハァー。」
「あっ、まただ。これで10回目 おじちゃん、溜息ばかり。」
少女の母親は「前に踏み出さないと始まらない ! あたって、くだけろ ! 」
バタッ。 父親が帰って来た様です。
「お父ちゃん、昨日のおじちゃん来てる。すっごく 暗いよう。」
「ただいまぁ。お ! リュドミール。」「えっ? ぼくの名前 ? 」
「今朝、若先生の所へ寄った。赤ん坊の父親を捜していたんだろう。君の名は、リュドミール。よろしく。あぁ、疲れた。
なんだ ? そんな顔は、やめてくれないか ! 」
父親は 泥塗れ。でも、顔は明るく、希望に輝いています。
「昨日は大広場の跡片付け。今日は焼けた建物、屋敷の跡を綺麗にしたんだ。新しいロシアを作るんだとさ。毎日仕事が
あるんだ。日雇いさ!毎日お金が貰える。それに、それに ! 今日はなっ、大工の仲間に入らないかと誘われた。今度は
定職に就ける。月給が貰える!」
「ほんと。偉い人が代わって、ロシアが良くなるって本当ね。大先生の言う通りね。」
「リュドミール、偉い人の元で働くんだろう。ここで溜息ついている暇はないよ。やって欲しい事が沢山ある。まず、下
町のどぶ掃除 ! 病人を増やさない様。市場の再開 ! この街に商店を。娘の通う学校も建てて欲しい ! 弱い者を銃で脅
したり 夜の酒飲、取り締まって欲しい。治安だ!安心して暮らせる 新しい国をつくってくれよ。」
「えっ ? はい ! そうですね。こんな事していられない。 あの、ぼく。住む所も探しています。」
「あぁ、この裏側 アパートだよ。婆さんが管理人、住人は爺さんの画家が一人っきり。若いのが住んでくれたら 婆さん
喜ぶよ。雨漏りで 床もガタガタ。あぁ! イワンを見掛けた。久しぶりに!生きていたんだ。いい青年になっていた! 双
子と一緒に修繕すればいい。」
「はい。君、お名前は ? 」 「私 ? ナターシャ。ナターシャ・クロモワ。」
「あの、クリーモフ家の皆さん。ありがとう。それで、これからもよろしく。」リュドミールが重いお尻をやっと上げ、
一家の出口を開けると、ピエールが。往診の帰りと出くわしました。隣には あのベテラン看護婦が。ピエールはリュド
ミールの肩を引き寄せ「病院へ来てくれるんだね。赤ん坊の父親を探す仕事、ボリシェビキの初仕事、両方お疲れ様。」
ベテラン看護婦はリュドミールの手を握り締め「大きくなって、リュドミールぼうや。あの赤ちゃん 助かったのね。信
じられない、良かった。私もね、家に帰ったら主人と病院へ行くのよ。今日はおよばれに招待されているの。リーザのマ
マンのフランス料理。」「もしかして、ベラさん ? ベラ・コンチャローワさん ? 懐かしい ! 」「そうさ。泣き虫のリ
ュドミールぼうや、新しい仕事。弱虫に勤まるかい ? はっはっはっ……。」笑いながら帰って行きました。
「みんな。今日は笑顔でないと、ん ? リュドミール。」「あ。うん、わかっている。」
病院へ着き リュドミールはアレクセイの病室へ通されました。
清潔な個室、真っ白なシーツを敷いたベットにアレクセイは横になっています。枕元には ズボフスキー。リュドミール
の願いで、赤ん坊を抱いたリーザ、そして大先生も同席します。 ピエールは往診の患者のカルテ整理でここに居ません。
この病室にいる全ての人の表情は穏やかで、その優しい視線はリュドミールに注がれています。
アレクセイは心から「娘の名前はミーナだ。仲良くしてやってくれ。」
「えっ、ドイツ名“ 愛 ”っていう意味ですよね。」 「お ! 分かるのか ? 」
「はい。屋敷でぼくがあの人にドイツ語を習い、ぼくがあの人にロシア語を教えました。必死でしたよ。愛する人に会っ
たらこの国の言葉で話したいと。不思議な窓の伝説も聞きました。ぼく達 仲良しでした。記憶を失われてからもずっと
……。アレクセイ、今日、会いました。ドイツへ向かう列車に姉と一緒に。びっくりしました。髪は断髪、 目は虚ろで
心はきっと冷えきってしまっている。姉の後ろにぽーっと立ち尽くすその姿に、ぼくの心引かれた感情豊かな美しい女性
の面影はなく、こんな姿になって。あぁ、兄と姉はきっとドイツの実家へ送り届けるのが最善の道だと判断した。もうそ
の道しか彼女には無いのだと。胸が一杯になり、貴方達二人が生きている事を告げることが出来なかった。口出し出来な
かった。不甲斐ないぼくを許して下さい。でも、でも、貴方の奥さんは、ユスーポフ家にとって 大切な女性でした。と
ても言葉では言い表せない、不思議な存在でした。」
アレクセイは取り乱す事なく、落ち着いた口調で「ありがとう リュドミール。新しく生まれ変わったおれが、これから
生きていく目標が出来た。今度こそ、安全な人間になって、娘とユリウスの元へ会いに行く。リュドミールありがとう。
ユリウスに優しくしてくれて、ありがとう。」
ズボフスキーがリュドミールの背中を優しく擦ります。
アレクセイはゆっくりと語ります。「なぁ、ズボフスキー。迷っていた。ずっと、だが、迷いが吹っ切れた。目標が出来
た。ずっと、無理して生きていた自分と決別する決意が出来た。おれ。これから毎日笑って暮らして行きたいんだ。娘と
共に 無理して笑うんじゃないんだ、心から楽しい生活をして行きたい。笑顔でユリウスの元へ行く。
兄貴に幼い頃生きて行く道を諭され、アルラウネに教育され、ドイツからロシアに帰り、革命に身を投じ、危険と隣り合
わせの毎日、もう何年も楽しくて心から笑った記憶がない。」
「あぁ、あぁ。革命家、アレクセイ・ミハイロフは生死不明だ。」
「国民におばあ様を殺され、そのおばあ様がおれをこの世に引き戻してくれた。今のおれの一番は 家族を守りたい。一家
を養っていける仕事に就きたい。そんな自分になる為の勉強がしたい。娘と共に。」
「親心だな、アレクセイ。」
「あぁ、双子か ? 」
「分かったか ? 」
「当たり前だろう。何年の付き合いだ。双子の親代わり何だろう ズボフスキー。」
「そうだ。母ちゃんがネヴァ川ヘ身を投げ様としていた所に通り掛かってな。ガリーナを失って直ぐの事だった。ガリー
ナが三つの命を救うのに手を貸してくれたと、思った。あの双子、いい顔して笑うんだ。直ぐに仕事を紹介した。同志の
宿屋の食堂だ。あの双子、いい顔して働くんだ。これからはこういう人々が必要だと思った。労働者だ。彼らがこの国を
支えて行く。そして、その人々が安心して暮らせる国に導くのが、リュドミールよ ! おれ達なんだ。そういう関係が作
って行けるといいな。アレクセイ、おれの新しいボリシェビキの仲間の同志だ。リュドミールだよ。」
アレクセイは少し不安そうな顔に。ズボフスキーはそれを吹き飛ばす大きな声で、
「命は大切に!おれとリュドミールの合言葉だ。いいな ! 」
大先生がお腹を抱え笑いながら。「それで、アレクセイ。将来の目標は ? 」
「音楽家を目指します。」
「ハァー ! 」リーザが叫びます。「あっ、御免なさい。私ね、お節介の、でしゃばりなの。」
「いいよ。リーザ、お話しなさい。アレクセイに君のお節介はとても役に立つ。」
「大先生ったら。あの〜 私の父、フルート奏者なんです。パパ、喜びます。今のロシアには芸術家、音楽を目指す者が少
な過ぎるっていつも嘆いているの。アレクセイ、貴方の力になってくれる。パパ、ロマンチストよ。優雅で甘い音色を求
めて、フランスのパリへ旅だったの。そこで出会ったのが、フランス歌劇団の合唱団員の一人だった、ママン。二人共、
ロマンチストで夢想家、出会って直ぐに恋に落ちてママンはパパにくっついてロシアへ。二人は今も仲良く暮らしていま
す。パパね、ペテログラード・フィルの一員で、今日はお昼の公演一回。もうすぐここへ、はっ! 」見るとリーザのパパ、
キリル・ガガーリンが、部屋の入り口に。人差し指を唇に当て、目で合図。リーザは頷き。「アレクセイ 貴方の音楽へ
の思いを話して下さい。」
「おれは、バイオリン弾きだった。初めてバイオリンと出会ったのが七歳。兄のドミートリィの演奏だった。体が震えて
涙が溢れた ! おれもあんな風に弾きたいと思った。心を打つ音色には言葉はいらないんですね。でも、革命家になった。
兄に彼の理想を語られ、彼の恋人に革命の教育をされ。でも 今は、自分だけの決意です。ドイツの聖ゼバスチアン音楽
学校でバイオリンを専攻して、そこでユリウスと出会った。音楽の仲間も沢山いた。シベリアで指を痛めて、でも。バイ
オリンを学びたい、自分が納得するまで。こんな指でやっぱり無理かな ? それから、指揮も習いたい。自分の楽団も持
ちたい。オペラの演出もしたい。編曲も音楽理論も音楽の仲間も作りたい。モスクワ音楽院で学びたい。今は夢が無限に
広がって。こんな30過ぎた親父が変ですよね。」
扉の外で話を聞いていたリーザのパパがアレクセイの前へ静かに立ちます。
「アレクセイ。リーザの父、キリル・ガガーリンです。始めまして、嬉しいね。こちらの胸まで熱くなりました。力にな
るよ。その思い、私の楽団、ペテログラード・フィル、名称もくるくる変わって 常任指揮者も次々と政治と同じかな ?
でも、皆さん音楽を愛する素晴らしい方々だ。今の団長さんに聞いてもらおう。推薦状書いて貰えるよう力を貸そう。」
「アレクセイ、ロシアの医学では無理でも、ドイツの医学は素晴らしい。そこには君の奥さんもいる。彼女は君の力に支
えになり君の指に奇跡を起こしてくれる。だから ここで、学べるだけの事を学べばいい。」
「ガガーリンさん、大先生。ありがとうございます。」
その時、またもや ミーナが奇声を 「ブー ブー。ブブブー。」
「あらあら、お腹すいたの合図。」入り口からは、食事のいい香りが。と、同時にベテラン看護婦ベラが「リーザ、ママ
ンがフランス料理出来上がったってお待ちかね。あらあら、あの時の赤ちゃんね。怖いお顔して、ミルクね。ママンがリ
ーザが使っていたおフランス製の哺乳瓶にミルク温めてるよ。」
「アレクセイ、ズボさん。看護婦のベラさんです。ミーナのお母さんを大先生と一緒に救ってくれた。ベテランさん。」
アレクセイはベットから起きようと「いいのよ。気を使わないで貴方のリゾット持って来ました。パパの夕食も。ここで、
ゆっくり語って下さい。音楽を。皆さんは食堂へどうぞ。」長い話し合いもやっと終り。やっと、皆 夕食を迎える事が
出来ます。
食堂へ入り、皆が一斉に感激の声を ! 「わぁ〜。」
ママンの大切なお客様へ心の籠ったお洒落な演出。 薄暗いお部屋の灯りは全て、キャンドル。お部屋のテーブルのお
料理のあちこちにピンクの炎がユラユラ揺れます。真っ白なテーブルクロースの上には、小さなグラスに可愛いお花が。
部屋に入った全員の心が穏やかになりました。
「皆さん ママンのフランス料理。暖かい湯気が立っているうちに どうぞ、御上がりください。」それぞれが、気が合う
同士、席に着きます。
リーザはピエールに手を取られ、そんな幸せそうな二人に目を細めてママンもリーザの隣に。
「リュドミールぼうや、私にしっかり顔を見せて。」ベテラン看護婦は懐かしそう。
「フョードル、そう呼んでいいかな ? 私は、アルチョム・サハロフ。」
「はい、サハロフ大先生。相談が山積み、今日は帰れそうにない。」
「先ずは、ありがとうございます。双子の恩人 フョードル、ズボフスキー。長いお付き合いになりそうです。」
ズボフスキーはスープを啜りながら 「旨い。こちらこそ、先ずは、アレクセイ親子から。」
大先生もスープから「美味しい。赤ん坊、町役場へ行き、戸籍を作ろう。私が身元引き受け人になる。名前はミーナ・ミ
ハイロワ。アレクセイが音大学生になり帰って来たら、父親として名乗りを上げればいい。大丈夫、アレクセイ・ミハイ
ロフなんて名はこのロシアに何万といる。だが、音楽家の卵は一人。役所には私も一緒に行くよ。ドイツヘと旅立つ時は
その身分証を持って、胸を張り、顔を真っ直ぐに堂々と出国して欲しい!ロシアの音楽家として。」
「あぁ、大賛成。」
「次は、マクシム。アレクセイの傷の手当は素晴らしかった。あいつは勉強が大好きで、夫婦の自慢の息子だった。医学
の道へ進ませてやりたい。」
「おれも力になるよ、大先生。かあちゃんが聞いたら涙流して喜ぶよ。」
「次、リュドミール。これが難しい。よりによって ボリシェビキに入るとは。ユスーポフの姓が知れたら 終りだな。考
えるだけでも恐ろしい。」
「その時は亡命……。生きて行くにはその道しかない。」
「心つもりはしておこう。平和を愛する彼の行き先、ピエールに相談しよう。心当たりはあるよ。大丈夫。最後にイワン
か、あいつはバカだからなぁ。だが、夢は持っている。かあちゃんと食堂を持つ夢。」
「それも、叶えてやりたいが、まだまだ 先だ。」
二人の話は尽きません。
隣では、ベラ看護婦とリュドミール。
「ベラさん、変わらない。生き生きして、しっかり者で、ピエールもぼくもいつも頼りにしてた。あの可愛い娘さんは ? 」
「お嫁に行ったよ。今は主人と二人暮らし、ねっ あんた ! リュドぼうや、住む所は ? 」
「クリーモフさんの裏のアパートに。でも まだなんにもなくて。」
「しばらく 私の所に泊まりな。アレクセイがモスクワで勉強中は赤ん坊 預かるんだろう。娘のベット運んであげよう。
身の回りの物も揃えて 何でも相談しておくれ、乗り掛かった船だ。あの親子がドイツへ旅立つ日まで協力しよう。」
「ありがとう。あの、ぼうやはやめて欲しいんですが。」
「分かった。分かったよ。リョドぼうや。」
そのまた隣では、ママンがミーナにミルクを。ピエールは困り顔でリーザに、
「ママン、ロシア語覚えなかったんだね。料理手伝うの大変だったよ。」
「話せるわよ。でも、フランスのお料理の調理中はフランス語しか話さないの。集中したいのね。あらあら、ミーナ、ミ
ルクぜんぜん減ってない。少食ねっ。小さいお口、小さいお手々、あんよも小さくて、全てが小さい、小さいミーナ。
ママンね、私には貴方が一番になったでしょう。それを知って、嬉しそうだけれども 何だか寂しそうだった。 だからそ
の寂しさをミーナで埋めていくつもりみたい。
上品で優雅でお洒落なフランス語 教えていくって。それに歌とピアノも。私にも協力して欲しいみたいよ。何だか、楽
しみ ! あらあらママン、ミーナとの夢の世界に妄想に浸ってる。ピエール、私達の仲間に入りたい ? 」
「勿論だよ。ぼくにとっての一番は君。」
「じゃぁ、フランス語をマスターしないと。私が教えてあげる。」
「本当 ? 」「D'accord(ダコー)!」「えっ ? 」「フランス語で『了解 !うん いいよ ! 分かったよ ! 』私が初めて話
せた言葉。私が大好きな言葉。大勢の前で、年上の方には、いきなりは使えない。でもね、心の通い合った人に、その人
を見詰めながらなら、D'accord! ね、D'accord.」
「よし、D'accord!か…ぼくに優しく教えてね。」
「ピエール、D'accord! ミーナ、D'accord! D'accord! もう〜 この子ったら眠ってる。ミーナ! D'accord! D'accordよ。」
大丈夫ですよ、リーザ。ミーナの夢の中には貴方のD'accord! D'accord!が、こだましています。そして、ミーナの初
めてお話出来た言葉も D'accordでした。
翌朝、リュドミールは出勤前に病院へ。アレクセイと仲良くベットの中の赤ん坊も早起き、じっと、リュドミールを見
詰めます。お父さんの了解を得てミーナを連れてネヴァ川ヘ、朝日が昇るのを見る為に。「ミーナ、毎朝来ようね、ずっ
と一緒に君がお母さんの元へ旅立つ日まで。毎朝、必ず来ようね。」「クッククックッ。」ミーナのすみれ色の大きな瞳
に朝日が輝きます。リュドミールは再び、病院へ赤ん坊を託し、任務へ赴くのでした。
アレクセイの怪我の療養には、1ヶ月以上がかかりました。少しずつ体が動かせる様になると、早朝のネヴァ川に彼も
参加しました。痛めた指を無理しない様にバイオリンの演奏を聴かせます。時々、イワンとマクシムも顔を見せる事もあ
りました。
まだまだ混乱の残るロシア、その早い時間だけは、静かでとても平和でした。
傷の治ったアレクセイは、ガガーリン氏の協力で推薦状も手に入れる事が出来ました。フィルの練習風景を見せてもら
い、演奏会に足を運び、音楽の素晴らしさを身に体験するのでした。
モスクワヘ旅立つ前にアレクセイは娘に小さなバイオリンをプレゼントします。そして、リーザに常にミーナのそばに
置いてやって欲しいと願います。触るだけでもいい、ポンポン叩いてもいい、キイキイ弦を引っ張ってもいい、 自由に
遊ばせてやって欲しいと。バイオリンが留守が多い父親の分身。「今、娘にしてやれるのはこれだけなんです。」そう言
い残し、音楽家アレクセイ・ミハイロフを目指し、遠く遥のモスクワ音楽院の門を叩きました。
こうして。ミーナの、アパートと早朝のネヴァ川と病院の狭い世界の毎日が始まったのでした。
月日が流れます。 1年、2年、3年。ロシアは素晴らしい変貌を遂げたのでしょうか ?
“ さぁ ? ”ミーナの回りの小さな世界、相変わらず人々は毎日暮らすのが精一杯、でも笑顔が一杯。なぜならば、町が
少しずつ変わっていったから。
「上の奴等は相変わらずさ。したっぱのおれ達が働けばいいのさ ! 」ズボさんの掛け声で、リュドミール、双子のイワン、
マクシムが町の為に汗を流します。どぶは清潔な溝に変わり、商店も再開。ズボさんの偉い人への直談判で、町に学校も
建ちました。
でも。相変わらず、銃を持った兵士は偉そうに、酔っぱらいも絶えません。でも心優しき人々は助け合い 励まし合い
一日一日を大切に過ごしています。苦しい事があってもリュドミールはそんな人々に支えられていました。
3歳を迎えたミーナは ? ロシア語を片言話せる様になりました。ママンとリーザの情熱的なフランス語は ? 何だかヘ
ンテコな世界。でも、愉快で楽しくて !
ミーナがバイオリンで音階を弾きます。輪唱の様に遅れてリーザがピアノを。それに合わせ♪アァ〜 アァ〜 アァ〜
アッ アッ アッ ア〜 ♪ ママンの美声が。最後に三人で「トレビアアーン。」
リーザが診察で看護婦さんの時は、ママンと二人っきり、それはそれは色っぽいフランスの少女に。器用にロシア語、
フランス語、二つの言葉が使い分け出来る様になりそう !
大先生も若先生もミーナの成長がとても楽しみ。病院の中はいつも笑い声が絶えませんでした。
そんな娘に、アレクセイは焦りを感じていました。
アレクセイの帰りは月に1〜2回か、最悪の時はモスクワで数ヵ月も勉強の日々が続きます。
でも、お父さんの帰りをミーナは心待ちします。 キリエの子守歌が聴けるから。バイオリンが教えてもらえるから。 お
父さんは嘆きます。「おれは子守歌の歌い手か ? バイオリンの教師なのか。」と。
帰る度に、ミーナに対してドイツ語を捲し立て、ドイツ語のみで喋りまくるのでした。
「怖い ! お父さん。」ミーナは逃げ回り、リュドミールにしがみ付きます。それがまた、アレクセイには気に入らないの
です。何故ならば、一番に人の名前を話せたのが“ リュドミール ”だったから。それには 回りも驚き焦りました。至
る所にアレクセイの似顔絵を張り、“ お父さん ”と、語りかけました。そんな回りを尻目に ミーナは“ リーザさん”
”大先生”“若先生”“ママン”“イワン”“マクシム”“ズボおじさん”“アレクセイ”と”お父さん”は最後でした。
今回も、アレクセイが帰宅しミーナは緊張の余り、お熱を出します。ミーナをおんぶし病院へ訪れたアレクセイはしょん
ぼりです。
「あらあら、ミーナ、またお熱 ? さあさあ、大先生の所へ行きましょう。」
いつものあの清潔な個室のベットヘ、リーザは連れて行き。アレクセイは待合室で頭を抱え込みます。程なく帰って来た
リーザはアレクセイを食堂へ、美味しいお茶を入れ、慰めます。
「あのう。相変わらず、熱はおれが留守の時も出るんですね。」
「えぇ。体も小さいからかしら ? お食事の量も少ないの。でもね。お熱、最近は直ぐに引くの。多分、今日も ! イワン
とマクシムもね。小さなミーナの為に協力してくれているの。私が病院の仕事がある曜日は必ずここへ来たり アパート
ヘ連れて行って 体の丈夫になる体操を教えているの。」
「大丈夫かな ? あんな、ムキムキにならないでしょうか ? 」「ふっ。あらまぁ、そういう物ではなさそうよ。私も ミー
ナに教えてもらった。両手を広げてすーっと頭の上で合わせて真っ直ぐになるの。息を吸いながら。また 両手を広げて
前屈みに足首を持つの。息を吐きながら。気を体の中に入れるの。胸の前で手を合わせたり、片足をすーっと伸ばしたり
楽しそう。“スタニスラフスキー ”って演出家の“ヨガ”って体操。マクシムが今、はまっているみたいよ。ゆっくり
と お年寄りにも安心な体操。」
「はっはっはっ ! 可笑しい ! 」「やっと 笑った。娘の前ではいつも笑顔 ! 最近、忘れているわね。アレクセイ。」
大先生が顔をのぞかせ、「アレクセイ、病室へ来なさい。リーザも。」
真っ白なシーツにミーナは眠っています。小さなくまのぬいぐるみをだっこして。
「アレクセイ、静かに待っておいで。」「スー スー スー。」可愛い寝息。「お父さん。」可愛い寝言。
「どんなに私達が可愛がっても一番はお父さん。くまのぬいぐるみミーシャはお父さんの代わり、リーザやママンが添い
寝してもミーシャを離さない。アパートでもね。君と寝る時は ? 」「おれと二人です。添い寝して“キリエ”歌わない
と眠らない。寝付いても おれがいなくなると 目を覚ます。」「素晴らしい、父と娘とは。何を焦っているんだい、アレ
クセイ。ドイツ語はゆっくりでいいんじゃないか? 私も協力するよ。ドイツへ留学していてね。2年程、丁寧に教えよう。
綺麗な発音の正しいドイツ語を。ドイツ語を話す時は外国語を混ぜないように気をつけるよ。『ただいま。』『おかえ
り。』『いただきます。』『ご馳走さま。』バイオリンが上手に弾けたら『上手だね。』『速く。』『ゆっくりと。』
『悲しそうに。』『楽しく。』先ずは、単語から、少しずつ文章に。それでいいんじゃないかな ? 何を話したらいいか
迷ったら黙っていればいい。きっと ミーナが話始める、覚えた言葉でね。ん ? アレクセイ ? 」
「ありがとう。ありがとうございます。大先生、なんか 吹っ切れました。」
「お母さんの事、話した方がいいと思う、今夜。お節介な私は、そういう事を話すの上手よ。何も分からなくてドイツ語
のお勉強はミーナも変だと思うわよ。大先生、それでいいかしら ? 」
「私は大賛成だよ。アレクセイ 君は何か考えがあって 母親の事を説明してこなかったのかい ? 」
「いえ、ただ、どう切り出せばいいのか、迷って、迷って、今まで来てしまいました。リーザに話してもらえるのならお
願いしたいです。」
「よしっ 、決まりだ。なぁ ミーナ。」
大先生は眠っているミーナの頬を優しく、手の甲で撫でてやりました。
リーザはアレクセイの目を見詰め、決意して聞きます。「ドイツへ旅立つのはいつ頃 ? 」
「決めています。ミーナが7歳を迎えた年の年内に。この国では 学校に通わせないつもりです。ドイツへ行ってきちっと
始めからスタートさせたい、母親の元で。すみません、面倒かけます。最後の日まで今のままの生活でお願い出来ます
か ? 」
「勿論よ。ねえ、大先生 ? お別れの日までずっとミーナが病院に来てくれる。あっ、私。お夕食の用意してくる。アレク
セイ、今日は病院でお泊まりね。」
ミーナがお昼寝から覚めたのは夕方もとっくに過ぎた頃でした。お熱もすっかり下がっています。お台所で皆、一緒に夕
食を囲むことに。
「すみません、いつも。アパートに置き手紙を残して来たので、リュドミールは心配しないと……まっ、いつもの事なん
ですが。」
「ピエールがアパートに今日は泊まりに行くそうよ。二人共、明日は休みだから久々に語り合えるって ! マクシムも合流
するから、3人で 賑やかになりそうね。お食事はイワンが。今夜の私達のもイワンの賄い、さっき持ってきてくれて。」
「お ! 楽しそうだ。私も参加したいぐらいだ。行こうかな ? リーザ。」
「まぁ、大先生ったら。」
「じゃぁ、私も ! 」「ミーナはダメよ、お父さんと一緒に。」「……。」
「やっぱり おれ、かなりの嫌われ者で。」
「さぁ、頂こう。ミーナはリゾットを沢山、御上がり。」「はあ〜い。あぁ ! 美味しい。イワンのお料理。」 「アレク
セイ、大先生、ウォッカ。持ってくるわね。えぇっとおつまみ チーズも。」「うおぉ〜 ! イワンの賄い、旨い ! 大先生、
旨い、旨いですね。」
「うおぉ ! 旨い、旨い。イワン 旨いぞぉ。」ミーナが足をバタバタしながら、物真似します。アレクセイは慌てて、「ミ
ーナ、旨いはダメだ。女の子は美味しいって言いなさい。」
「美味しい !美味しい !イワンのお料理美味しいね。」「よし、よし。」ロシア語で楽しく語り合うミーナとアレクセイ。
大先生とリーザはそんな父と娘を目を細め見詰めます。リーザは深呼吸、話を始める決意をします。テーブルのお料理も
無くなり、今あるのはお摘まみとウォッカのみ。
「今日はね、ミーナに大切なお話よ。」「なになに、リーザさん ? 楽しみ〜 ! 」
「そう、良かった。ミーナ、私にはママンがいるの。ナターシャお姉ちゃんにはお母ちゃん。イワンとマクシムには母ち
ゃん。ミーナにもお母さんが……ドイツに。」
「いるの ? 」「そうよ。」「……。」「びっくりした ? 」「うれしい。」
アレクセイ、大先生、リーザは、ほっとします。「ドイツ ? 」 「そうよ、ドイツ人。私のママンはフランス人、だから
フランス語お話しするでしょう。ミーナのお母さんはドイツ人、ドイツ語をお話しするの。お父さんがミーナにお話して
いる言葉がドイツ語よ。」
「お父さんが怖いお顔でお話する。あれ ? 」 全員が「……。」言葉を失います。
リーザは優しく「私はママンが好き。ナターシャお姉ちゃんはお母ちゃんが好き。イワンとマクシムはかあちゃんが好き。
ミーナはお父さんが ? 」「お父さん、怖い。」「あぁ ! 」
アレクセイの嘆き声が部屋に響きます。大先生は「ふぅ。」溜息つき、ミーナを諭します。
「ミーナ、お父さんがお勉強しているモスクワはとっても遠いよ。いつもくたくたで帰ってくる。でもねっミーナに沢山
お話したくてね、一生懸命お話する。怖いお顔になるのはだからかな ? 疲れていてもバイオリン教えてくれる。ベット
の中ではねんねの ♪キリエ♪を歌ってくれるね。ミーナの事、大好きななんだ。ん ? お父さんのどう思う ? 」
「お父さん、Je t'aime(ジュ・テーム、フランス語で『愛している』)。」アレクセイの目が潤み、ぐっと堪え。ウォッ
カをイッキ飲み。
「おい、アレクセイ ! 返事 返事。ドイツ語でありがとう、ほい ! 」
「あっ ! あの、danke! 。 」 」
「知ってる。Danke! ドイツ語で“ ありがとう”でしょ。」「えぇ ! 知ってるの ? 」三人の声が重なります。
「うん。マクシムにドイツ語教えてもらっているの。『ミーナには大切な言葉だよ』って 、マクシム お医者さんになる
からドイツ語のお勉強してるの。とっても上手よ。どうして大切かは、『お父さんに聞きなさい。』って。リーザさんの
お話で分かった。」
ミーナは目を瞑ります。静かな時間が過ぎ、再び目を開け。
「ロシア語とドイツ語混ぜ混ぜしてお話ししていい ? 『私は今日、フィーバー(Fieber「発熱」)しました。お父さん
はクランケ(Kranke「病人」)。心の中がシュメルツェン(schmerzen「痛んで」)います。」
「うぉー ! 」アレクセイは叫び二杯目のウォッカをイッキ飲み。
「素晴らしいわ。ミーナ、3歳の少女が素敵 ! 」
「これはね。お父さんに教えてもらった。」 「なんて ! なんて ?」
「バイオリンがうまく弾けない時は目を閉じて 心を静かにして、しばらく待ちなさい。それから、ゆっくりと目を開けて
弾き直しなさい。って。だから、困った時もそうするの。」
「お父さんのその時の言葉は ? 」
「ロシア語、ロシア語話すお父さん 私、大好き。」
アレクセイは目を真っ赤にして、ふらふらしながら
「あのぅ、バイオリン教える時だけはロシア語で ! おれのバイオリンを教えたいので。おれ、ロシア人だし。あの……変
ですか ? 」
「アレクセイ、君は素晴らしい父親だ。ミーナにとって 世界一だ。」
アレクセイは三杯目のウォッカをイッキ飲み。
「お父さん、変、変、変 ! 変な目。お顔も変 ! よだれ垂れてる。でも、お父さん、je t'aime! 」
ヨレヨレのアレクセイをミーナが支えます。大先生とリーザも大慌て、三人で病室へ運びました。
「大先生、リーザさん、ダンケシェ!(Danke schoen「ありがとうございます 」)」
「どういたしまして、ミーナ。これからは私がドイツ語を教えてあげようね。楽しくお勉強しようね。」
「本当 ! うれしい ! 大先生とお勉強 楽しみ、楽しみ。」
リーザはひと安心。「ミーナ、今夜は私と寝ましょう。ねんねのミーシャ持って来て。」
リーザとミーナは仲良く夕食の後片付け、仲良くシャワーを浴び、仲良く寝室へ。
ミーナは小熊のぬいぐるみミーシャの着せ替えを可愛いパジャマに。ミーシャはリュドミールがプレゼントしました。生
まれたての赤ちゃんミーナに。お父さんがモスクワヘ旅立ち、赤ん坊はねんねが出来なくなりました。『ブーブー、ブー
ブー。』そう言いながら、リュドミールは小さなくまの子ミーシャを「お父さんの代わりだよ。」と、ミーナに優しく躾
ました。それから、ずっと ミーシャはミーナのねんねのお友達。ママンが着せ替えのお洋服も沢山作ってくれました。
着せ替えごっこもミーナは大好きです。
「ミーナ、見て! お星さまが沢山、とっても綺麗。」
ミーナはミーシャをだっこして、リーザと並びます。
「お空はずーっと遠くまで繋がっているのよ。色んな国に。ミーナのお母さんの国、ドイツにも。」 「お母さんに会うの
嬉しい。楽しみ。会ったらまたここに帰って来るね。」
リーザは返事が返せませんでした。「おやすみ。」「おやすみ。」二人はミーシャを真ん中に向き合って、眠ります。
こうして、ミーナは大きな言葉の壁をゆっくり ゆっくり 乗り越えて行きました。
ミーナは5歳になり、7歳まであと2年、リーザはカウントダウンを始めます。少しずつ距離を置いていこうと決意した
のでした。
今までは、リュドミールが仕事を終え病室へ寄り、皆で夕食を囲み、ミーナをアパートヘ連れて帰りました。疲れても、
帰りが遅くなっても、いつも笑顔一杯でミーナを迎えに来てくれました。でも、これからは……。
「ミーナも5歳になった。だから、毎日の生活を変えて行きましょう。色々、覚えて行きましょう。
先ず、お留守番から。仕事から帰って来るリュドミール、遠いモスクワから帰って来るお父さん、このアパートでお出迎
えするの。」
「おかえり ! をアパートで言うの ? リーザさん。」
「そう。それまで、一人でお留守番。アパートで何をして待っているかは、私が教えてあげる。一緒に覚えて行きましょ
う。」
「何するの ? 楽しみ。」ミーナは何をするのも、楽しみに繋げていきます。今回もとても嬉しそう、一人でお留守番が全
然寂しくなさそう。リーザは安心します。
「先ず、お勉強。ミーナ、好きでしょう、お勉強。文字を覚えて行きましょう。書いて、読むのよ。お話している事は全
部文字になるの。」
「知ってる。知ってる。絵本にも書いてる。私ねっ、少し読めるの。ママンに教えてもらったのよ。えーっとね、マザー
グースの子守歌。」
「それ、私もママンに習ったわ。懐かしい ! でも 最初は自分の名前からノートに文字を書く練習。このノートの最初の
ページ、ミーナ・ミハイロワ。ほら見本の通りに5回ずつ鉛筆で書いていくの。
一番上がロシア語、見本は私が書いたの。
次がドイツ語、大先生の見本。
最後がフランス語、ママンが書いた見本。」
ミーナはわくわくしながら、覗き込みます。 リーザは丁寧に鉛筆の持ち方から教えます。
素直で、前向きで、教えた事をどんどん吸収していくミーナ、リーザにとって、ミーナといる時間がとても楽しいので
す。
「文字はゆっくり見本を見て丁寧に、優しい心で書くと 優しい文字に。怒りながら書くと怒った文字になるの。不思議
でしょう。文字は残って読む事が出来る。誰が読んでも読みやすいそんな文字が書ける様になりましょう。」
「はい。」リーザはノートを閉じます。
「 えっ ? 一緒にしないの ! 」
「これは、ミーナが一人でお留守番している時にする事よ。それから、次。終わったら、テーブルの上を片付けて、綺麗
に拭いて。スプーン、フォーク、お皿を並べておいて。」
「はい。病院のお台所のテーブルみたいにするの ? 」
リーザはミーナの頭を優しく撫でながら「帰って来たリュドミールが“ホッ”と、出来る様に工夫していいわ。それか
ら、ノートは明日、このカバンに入れて持って来て。」
可愛い布のカバン、“ミーナ”ロシア語のアップリケの刺繍入り。ママンに教えてもらいリーザが作りました。ペンケー
スもお揃いの布、チャック付きの細長いペンケース。
「ナターシャお姉ちゃんみたい、学校に行くみたいね。ありがとう リーザさん。」
「ミーナの学校はドイツに行ってから。」
リーザは玄関に立ち「私が帰ったら鍵を掛けて、リュドミールが帰って来るまで誰が来ても扉は開けないで、一人で外に
出ないでね。大切な約束。」
ミーナは独りぽっちになります。
お勉強、お食事の用意。ゆーっくり行っているうちにリュドミールが帰って来ました。イワンの賄いのお料理を持って、
“カチッ! ”鍵を開ける音。
「おかえり。」 「ただいま。」お留守番は一日目が無事に終わりました。
次の日はリュドミール・ユスーポフ。 「ユスーポフ ? 」ミーナの初めてきく名前。
「人の名前はね。ファーストネーム(名前)とラストネーム(苗字)で、出来ているの。ミーナ・ミハイロワ、アレクセ
イ・ミハイロフみたいに。国によっては、もっと長く複雑になるときもあるけれど、それはミーナがもっと大きくなって
からね」
自分の名前を自己紹介するときはフルネームで挨拶するのが礼儀。でも……今のロシアでは、難しいかもしれない。でも
ミーナは、彼の名はフルネームで ! 口には出せなくても、書ける様になりましょう。リュドミール・ユスーポフ 」
マキシム・メリコフ、リーザ・サハロワ、フョードル・ズボフスキー。みんな 知っていた。でも、リュドミールのラスト
ネームは知らなかった。ミーナはニッコリ笑い 「ユスーポフ。」小さく呟きました。
こうして、人の名、物の名、短い文章、長文、ミーナは少しずつ読み書き出来る様にお勉強します。3つの言葉、リーザ
は無理しない様に工夫して教えていきました。
そして。もうひとつ、ミーナが女の子として出来るお手伝い。お掃除、お洗濯、食べた食器の後片付け、ほっと出来る暖
かいお部屋作り、色々身に付けていきました。
テーブルにクロースをコップに草花を生けて、それだけで ! リュドミールもアレクセイも嬉しそうにお食事してくれま
す。椅子にはクッションを。洗面台にはいつもフカフカのいい香りのタオルを置きます。
”小さな心掛けが大切よ。”リーザは本当に丁寧にミーナを躾ました。
6歳のお誕生日にミーナは念願のプレゼントをもらいます。”キャンドルセット”ゆらゆら揺れる炎、お部屋が夢のよう
な世界に ! 「アパートの夕食にテーブルの真ん中に置きたかったの。ありがとう、リーザさん。」
キャンドルを灯すには火を使います。 火を使うのは必ず危険と隣り合わせ。でも、安全に使えば大丈夫。怖れていては
何も出来ない。何でも、出来る様にならないと。
「火を使う時は必ず一人は駄目よ。点ける時も消す時もアレクセイかリュドミールと一緒に。約束事を守れば安全なの、
絶対に! 6歳になったあなたを信じてる。」
「はい、火を点ける時も、消す時も必ず二人で ! ピンク色のキャンドル、今夜使うね。リーザさん。」
アパートに送ってもらったミーナはピンク色のキャンドルをテーブルの真ん中に置き、リュドミールの帰りを待ちます。
“カチャッ”「ただいま。」「おかえり。」ミーナはテーブルにリュドミールを連れていきます。「ねっ、ねっ、リュド
ミール。リーザさんのお誕生日プレゼント。早く灯りを点したい。」「ミーナ、落ち着いて。綺麗なキャンドルの灯りも
君のお誕生日も、二人だけじゃ寂しいよ。みんなを呼んでいるんだ。イワン、マクシム、母ちゃんにズボさん。」“ドン
ドン ドン ! ”賑やかな音と声が「ミーナ、お誕生日おめでとう ! 」
お料理に、ケーキに、キャンドルの優しい灯りに、楽しい笑顔に響く笑い声。みーんな、みんな忘れられない楽しい夜に
なりました。
月日はどんどん過ぎて行きます。
アレクセイのモスクワでの音楽の勉強も順調に進んでいる様です。
ミーナの元へ帰る度に、リーザのパパのペテログラード・フィルへ足を運び、色々指導を受けている様です。
そして音楽家志望の仲間達も多くアパートに連れてきました。
特に、プロのオペラ歌手を夢見る女性、エレナ・ネトレプコ。ミーナと初めて出会った時から、二人は大の仲良しに !
ミーナは “エレナお姉さん”、エレナはミーナを “ 私のベイビーちゃん ” と呼び 、とても可愛がってくれました。
陽気でお洒落でフランスのパリの舞台でデビューするのを憧れに持つ、美しいソプラノの声を持つ女性。彼女の恋人はダ
ーリンさん。舞台演出家志望の心優しい紳士。
二人が訪れるとアパート全体がとても華やかになるのです。
(この様子はゆっくりといつか、本編『幸せな家族』で。エレナは後々、お話の大切な登場人物となるのです。)
お話は元に戻ります。
ミーナが7歳の誕生日を控えた6月のある日、病院の台所のテーブルには摘みたての莓。
「リーザさんいい香り ! あまーいの沢山。幾つあるか、数え切れない。え〜っと、1つ 2つ 3つ、大きいのは幾つ ? 4つ
……」
「ミーナ…。」リーザは言葉を詰まらせ、「どうしたの ? リーザさん、顔色悪い、真っ青。」
「大変、私 ! 大変な間違え、ううん。忘れていた。」 リーザはふらふら、机にしがみつき。
「大先生、大変。リーザ、おかしいの。」 ミーナはびっくりして大先生を呼びに。
大先生は直ぐに駆け付け「ミーナはここで待っておいで。リーザはお部屋へ私が連れて行く。心配しないで。」
寝室でリーザは大先生を見詰めます。「大先生、ううん。お父さん、私、ミーナになんにもしてやれてない。あぁ、今。
気が付いた。算数も、理科も、社会も、あの子ドイツの学校でみんなに付いていけない。心配 ! 」
「リーザ、どうして一人でしょい混むんだい ? 大丈夫。心配しなくていい。
あの子が7歳になったら、お別れの日が近付く。それまでに自分達で出来る事をあの子にしてやろう。そう、思って来た
んだよ。あの子の周りの皆が。
イワンは、食堂で客に釣銭を誤魔化され無いように、勉強嫌いだが、算数をマクシムに習った。努力の結果、彼の計算は
速くて完璧だ。母ちゃんと食堂を持つ夢を持っている、その時の為に文字も覚えないと。ミーナが文字をイワンに、イワ
ンがミーナに算数を教え合いしている。マクシムも時間を見付けてミーナに理科を教えてやっている。社会の状勢はリュ
ドミールがいつも話してくれている。
7歳になってドイツで暮らす少女が、初めて通う学校で恥をかかない様に、頭のいい転入生として堂々とやって行ける様
に、私が皆にお願いした。もう、何年も前に。音楽と語学はリーザとママンのお陰で完璧だね。
あの子は自分の出来る事を自慢したりしないからね、リーザは気が付かなかった訳だ。
のんびりと心優しい少女、本当に良い子に育ててくれたね、リーザ。」
リーザの顔色も元通りの淡いピンク色に戻り、脈も安定しました。
「リーザ、体の変化には気が付いていたんだね。」
「はい。“ ミーナとのお別れがとうとう現実になって来た ” そう思うと、心の中で分かっていても、どうしても受け入
れられなくて、自分の体が後回しに。今、一番大切にしないと駄目なのに。看護婦失格ね、自己管理も出来なくて。」
「安心して、これからはゆっくりと休みながら過ごせばいい。私達のしてやれる事は全部終わった。」
リーザは、心配しているだろうミーナの元へ。ミーナは中庭でお花を見ています。
「あっ、リーザさん。大丈夫 ? 」
「えぇ、外の空気が吸いたくて、ミーナのお顔も見たくて。」
「リーザさん、元気になって良かった。
見て見て、蝶々。これね、もんしろちょう。 蝶々の一生は色々変わるの、最初が卵それから卵が孵って青虫に、変な形。
私、少し気持ち悪い、そして蛹、脱皮して蝶々になるのよ。そしてまた、卵を産むの。マクシムに教えてもらった。で
も。続きがあるの、蝶々はお花の蜜を吸い。でも、青虫は葉っぱが好き ! もぐもぐ、もぐもぐ沢山食べて、葉っぱを沢山
食べられたお花は枯れてしまうの。でも、小鳥さんが青虫をパクって、食べて。小鳥さんは食いしん坊 ! 木の実もパク
パク一杯食べて、うんちするの。その中のにはお花の種が入っていて、土にぽとんって、落ちてね。そこから芽が出て、
お花が咲くの。そうやって命はくるくる回っていくの。」
「そのお話も、マクシム ? 」 「ううん、これはママン。」 「素敵なお話、ママンが ! 」
「ママン、お花にも詳しいよ。こっちのお花は一年草、枯れてしまうから種を取らないと。こっちのは球根、そのままで
も又、花が咲くの。道端のお花はとても丈夫。でもね、花壇のお花は世話をしてやらないと。ねっ。」 「その通りね。
パパにもお話してもらった ? 」
「はい、パパのお話は難しいの。音楽のお話、ひとつ、ひとつの曲には作った人の想いが込められている。その想いを心
に描きながら演奏したり歌いなさいって。ねっ、難しいでしょ。」
「想い……。」
「パパはね、“想像の心、心にうかべる気持ち”って教えてくれた。」
「で ? 」
「後は自分でお勉強しなさいって。本を色々読んで。ママンがお誕生日にプレゼントしてくれたの、バッハの絵本 ! すご
ーく綺麗な絵よ。」「読んだの ? 」「ううん、絵を見ているの。」「じゃあ、私が読んであげる。」「本当 ! 今度、持
って来るね。」
「ピエール、ううん。若先生にも教えてもらった ? 」
「色々、教えてもらっている。体の仕組みとか、人間の体の中よ。骨の絵と肉の絵を見るの。これが一番気持ち悪い、心
臓、腎臓、肺。関節、骨盤、肋骨。」
「ミーナ、それ。一人で聞いているの ? 」
「ううん、マクシムと一緒に。マクシムがわたしも一緒に聞いて欲しいって。最初はイワンもいたけれど直ぐに来なくな
っちゃった。わたしも本当は嫌だけれど、マクシムのお願いだから…。」「ミーナ、頑張って聞いてあげて。」「はい。」
「後は、誰 ? 」「ええっと、あっ。母ちゃん、お料理を教えてもらった。アパートに来てくれて一緒に作ったの、イワン
も一緒に。『 作り方を忘れるなよっ。』って、一つ一つ、お料理の作り方、ノートに書いてくれた。綺麗な字、読みや
すい。私の宝物。
それから、ズボおじさん。『教えてもらった人には必ず“ありがとう”って言いなさい。お話を聞く時は相手の目をしっ
かり見て聞きなさい。』ズボおじさんの目、優しい目。
リーザさん、ありがとう。」
「どういたしまして。」
リーザはミーナのこれまでの成長がとても誇らしく、自慢に思えます。
広い世界へ飛び出して行くミーナ、今度は色々な人と出会うのね。皆に愛される少女でいて欲しい。“愛して、愛されて
もっと大きく成長してね”そう、願います。
「そろそろ、中に入りましょ。」 「はい。」 大先生が二人を出迎えてくれました。
「ミーナ、わたしの部屋へ来なさい。お話がある。」
ミーナは大先生から、リーザのお腹の中に赤ちゃんが出来た事を聞かされました。これから アパートヘ送るのは自分か、
ベラになると。ミーナは嬉しくて嬉しくて、にこにこしながらお話を聞きました。
リーザはその夜、一日の出来事をピエールに報告しました。ピエールはしんみりと
「ミーナが初めて病院へ来た時はリーザ、君を僕に引き合わせてくれた。そして、去って行く時は新しい生命を招き入れ
てくれた。これからもこの病院はずっと幸せが続いて行く。この幸せ、大切にしないとね。」
そして、8月16日。ミーナは7歳のお誕生日を迎えました。御祝いしてくれるのは、リーザ、二人で昼食を済ませ、テーブ
ルの上には誕生日プレゼントの赤いキャンドルセット、その隣に小さく可愛いお誕生日ケーキ。昨夜、ママンが届けてく
れました。
リーザはにこにこ、ミーナはわくわく。
「ピンクのはね、優しい色で揺れるの。赤いのは暖かい色かな ? 今夜が楽しみ。」
「今、灯してみる ? 」 「みる。みる。わたし、お茶入れるね。」
ミーナがポットにお茶っ葉を、リーザがカップを用意します。そして、「火は点ける時も消す時も二人でね ! 」かまど
の火を消し、お湯を注ぎます。“ふわ〜”紅茶のいい香り !
ミーナはゆっくりとテーブルヘ、リーザがカーテンを締め、お部屋が暗くなりました。
ミーナは長いマッチを“すーっ”火をキャンドルに“ぽ〜 ゆらゆら”
「リーザさんのお顔揺れてる。綺麗! ”ちかちか、ちかちか。”ママンのケーキ美味しそうに揺れてる。いただきまーす。」
「ミーナ。お誕生日おめでとう ! わたしもいただきまーす。」
あっちとこっちで一つのケーキをつつきあいっこで、食べました。
リーザが話しかけます。
「 ミーナ、希望って分かる ? 」
ミーナは聞き返しました。
「希望……? て ? 希望って、なに ? 」
リーザは優しく答えます。 「わたしの大好きな言葉よ。」
ミーナは 「わたしも大好き。だから教えて、希望ってなに ? 」
「目に見えない。でも、人の心には、必ずあるのよ。希望を持つ事はとても素敵よ。それに向かって歩んで行けるから。」
「難しい ? 」
「ううん、難しく無いわよ。“こうなればいいな、こうしたいなぁ、”そう思うのよ。そうすれば、希望の向こうには必
ず幸せがある。」
「素敵 ! わたしもある。希望 ! 口に出して大丈夫 ? 」
「勿論、何 ? ミーナの希望。」
「いつか、いつか、遠くにいるお母さんとお料理を一緒に作りたい。それだけ。」
「叶うわよ。希望を心にいつも持っていれば。」
「リーザさんの希望は ? 」
リーザはお腹をそっと抑え、「この子がミーナみたいな女の子であります様に、そして一緒にお料理が作りたい。」
「凄い。わたし達、一緒ね。」 「一緒ね。」
“ ゆらゆら ゆらゆら ”赤い灯りが。二人の想いを、希望を揺らします。
7歳を迎えてからのミーナはアパートで一人でリュドミールの帰りを待つ時間がとても長くなって行きました。 まだ、日
が高い夕方に大先生と夕食を持ってアパートヘ、そこからはずっと、一人ぼっちでお留守。
本を読んだり、文字を書いてお勉強したり、お部屋の中のお片付け……。それでも一人の時間は沢山。でも、大丈夫。
「わたしには、歌がある。」 ミーナは一人で歌いました。リーザに、ママンに教えてもらった曲、リーザのパパにコンサ
ートに連れて行ってもらった時のオペラを口ずさんだり、そして、大好きなのは、ロシアの人によって作られ、ずっと歌
い継がれて来ている歌、中でも♪赤いサラファン♪リュドミールの好きな曲だから。
リュドミールは最近、元気がありませんでした。とても疲れて帰って来ます。
ゆらゆら揺れるキャンドル、二人で向かい合って夕食を頂く時、お話するのは殆どミーナ。
イワンのお話、ママンのお話、リュドミールの笑顔が見たくって一生懸命面白い出来事を話します。クスクス笑うリュド
ミール、ミーナはすかさず、「わたし、リュドミールの笑った顔、大好き。」
「ぼくは、ミーナの歌声が大好き。」
ミーナは♪赤いサラファン♪を歌います。そしていつも、リュドミールは昔の思い出話を語ります。
「お母様の大好きな歌だったんだ、この曲。ぼくだけがお母様似だった。お兄様もお姉様もいつも冷静で物静か。お母様
とぼくはよく笑ってお話好き。髪の色も顔付きもお母様似。ミーナと同じ、お母さんにそっくりになっていく。」
「本当、嬉しい。」
「ミーナと同じ年かな ? 7歳の時に亡くなって、お屋敷はとても静かになった。そして、ミーナのお母さんがやって来た
んだ。」 お話はいつも、そこで終り。
「リュドミール、今日も一緒に寝る ? 」「いいの ? 」「うん。」
誰にも言えない秘密、リーザにも。
二人はくまのミーシャを囲み、見詰め合い、手を握り、一夜を明かします。 リュドミールの夢の中にはお母様が。初恋
の人、ユリウスがきっと現れるのでしょうか。
翌日、二人は早朝のネヴァ川ヘミーナは彼の為、心を込めてバイオリンを弾きます。
登る朝日を見ながらリュドミールは心の中で
“ 本物の自分を名乗れる日は来るのだろうか ? 本当のぼくはこれからも永久にこの国には存在出来ないのか ? ”自分の
想いとは少しずつ離れて行くロシア、不安と不満が募っていくのでした。
ミーナはバイオリンを置き
「ユスーポフ、わたしね、この名前好き ! 」 「えっ ? 」 「リーザさんに教えてもらった、5歳の時に。リュドミール・
ユスーポフ ! 今日もお仕事、行ってらっしゃい。」
リュドミールは我に返り、“この少女は分かってくれている。それだけで十分。”
「いってきます。」笑顔で仕事に向かって行きました。
9月も末に差し掛かり、ロシアの短い夏が終ろうとしています。ミーナの回りにも少しずつ変化が。
先ず、マクシム。医学学校を卒業、お医者様の卵となりました。今日も大先生と往診に出掛けています。そう ! “サハ
ロフ医院 ”で働いているのです。若先生の相手の看護婦さんはベラ。赤ちゃんが産まれるリーザは今はお仕事がお休み、
身体を労る毎日です。お昼はミーナと、お料理を作ったり、お菓子を焼いたり。夜は編み物や赤ちゃんの産着をママンに
習ったりお顔も優しいお母さんです。
嬉しい知らせ! イワンと母ちゃんの夢が現実のものに。ミーナのアパートの一階に二人の食堂が出来る事が決まりまし
た。大工を受け持つのは、裏に住むクリーモフさん。親方からの一本立ちの初仕事、娘のナターシャは14歳となり食堂で
お手伝いする事が決まっています。
この計画の中心はズボフスキー。彼の夢の中に現れる奥さんのガリーナが”そろそろ 本物の家族になったら、フョード
ル。”と、後押ししてくれたのです。
マクシムとイワンも心から喜んでくれました。“ズボのおやじが親父になった。父ちゃんさ。そして母ちゃん、ガリーナ
さんは親父の奥さん、オレたちの姉さんさ。いつも一番星で輝いてみんなを見守っていてくれる。ズボフスキーは革命の
仕事をほんの少し、減らす決意をしました。
そして、そして。ミーナのドイツヘの旅立ちが 12月1日と決まりました。
ドイツへ旅立つその日まで、平和な毎日が続くはずでした。
ところが……、ミーナのほんの少しの、少しの油断から、恐ろしいとんでもない事件が起こってしまったのでした。ミー
ナはその事件で大怪我をします。怪我を与えた相手は昔、アレクセイに横恋をした、シューラ。恐ろしい執念でアレクセ
イとユリウスの娘、ミーナを捜し出したのでした。( 詳しくは『ミーナの冒険』でどうぞ )
大怪我を負わせ、誘拐しようとしたシューラ、そこへリュドミールが帰って来ます。危機一髪 ! でも……去り際、シュ
ーラは「あぁー、あなたを知っていてよ。そういう事、侯爵の弟ね。わたし知っている。レオニード侯爵の無念を晴らす
ため反乱を狙っているのね。あの時みたいに、ビラを蒔いてあげる。民衆は貴方にどんな仕打ちをするかしら ! あはは
は あははは、名前はリュドミール・ユスーポフだったかしら。」
恐ろしい言葉を残し去って行きました。
顔が腫れ、体には打撲跡、背中にはガラスの破片が、重傷のミーナをリュドミールは病院へ連れて行きました。即、処置
室ヘ。長い時間を掛けて手当が行われました。
病室へ移された後も高熱が続きます。夜が明けても熱は引きません。リュドミールは胸が張り裂けそうになりながら、ミ
ーナを見守り続けます。
そこへイワンが血相を変え飛び込んで来ました。
「町中にビラが蒔かれている。レオなんとか言う侯爵の弟がボリリュ……、あぁ! 何だっけ、親父の同士が反乱を狙って
いる。そいつがリュドだって ! どうなってるんだ ? 」
「ぼくが ? 反乱 ? 」リュドミールの体が硬直します。
「ミーナをこんな目に合わせた女の企みだ。大先生とマクシムの兄貴はお産の往診で手が離せない。ズボの親父が倉庫の
秘密の部屋で待っている。オレ、体が震えて、ピエール兄さん。」
ピエールは落ち着いて、「リュドミール、直ぐにズボさんの所へ、誰にも見付からないない様に。イワン、自信を持って
リュドミールをお願いする。ミーナは大丈夫、ぼくが付いている。」
リーザが遠い昔、リュドミールが変装したあの服を持ってきました。
「大先生に頼まれていたの。何かあったときはこの服をリュドミールにって、縁起を担ぎましょう。大丈夫なのよ、私達
が付いているからみんなであなたを守ってあげる。」
迷うリュドミールを二人はイワンに託しました。
遠い昔、 赤ん坊を抱いて訪れた秘密の部屋へ、アレクセイが寝かされていた部屋へ、リュドミールは久々に足を踏み入れ
ました。そこにはズボフスキーが待っていました。机の上にはビラが ! 何の証拠もない中傷する文章。
『レオニード・ユスーポフ侯爵、皇帝を守る軍人だった彼の弟がボリシェビキに潜んで反乱の機会を狙っている。名はリ
ュドミール・ユスーポフ。』
でも。ロシアでは、一度、疑いを掛けられたら裏切り者扱い、その先には、処刑。死が待っているのでした。
「ズボさん、覚悟は出来ています。ぼく、広場で処刑されるのですね。」
「あぁ。だが、処刑するのはおれだ。いずれ、こんな日が来る事は予想していた。上のやつらは未だに、侯爵や貴族を毛
嫌いしている。リュド ! お前は、反乱者じゃない。そうだろう ? 」 「はい。でも、もう終りです。」
「それでいいのか ? 汚名を着せられたまま死んで行って、おれ達の合言葉は ? 忘れているね。“命を大切に”おれは何
があってもリュドを守り抜く決意を持っている。仲間も皆、その覚悟だ。本人が弱気でどうする。君の兄、レオニード侯
爵が取った作戦を同じ方法でお前を助ける。」
「逃げるんですか ? 」
「 逃げるんじゃあない。生きて行く為の手段だ、図太くね。死んだら終りだ。平和な世界を作って行くのが夢なんだろ
う、リュドミール・ユスーポフとして。本名で生きて行くんだ。その機会が訪れた ! 今。」
ズボフスキーの作戦とは?
「7年前に赤ん坊を連れたリュドが訪ねた倉庫の前の家。あの夫婦を利用する。」
「そうだ、あいつら。いつも、倉庫の食料を薪を盗んでいる。怪しいやつらなんだ。だから引っ掛かる、欲深いからな。
あの夫婦。」
「あぁそうだ。おれが彼らに、ビラを見せ “裏切り者がこの辺に潜んでいる、確か何年か前に赤ん坊を連れてここを訪れ
ていると思う。見付けた者には、懸賞金が渡される。おれはネヴァ川の方に身を隠してそいつを始末する用意をしている。
“見付けたら知らせて欲しい。”とな。リュド、倉庫からこっそり出て来るんだ。夫婦はきっと、大声で叫んでくれる。
それでおれが銃で打つ。悪いな、侯爵の部下の様に腕はよくない。2発打つ、急所は外す予定だ。いや、必ず外す。いい
か、走るんだ。弾を受けた体でどんなに苦しくても、飛び込むんだ。そこにはイワンが ! 」
「オレは水のスペシャリスト ! そうだ、おれが待ってるぜ。」 イワンは出て行きました。
入れ変わりにピエールとマクシムがやって来ました。
「ミーナの熱は下がったよ、大丈夫。次は君だね ! 陸のスペシャリスト、マクシムは傷を負った君をここへ運んで来る。
そして、僕が必ず助ける。どんな大きな傷でも任せておけ!
7年前、未熟児の赤ん坊を町中へ連れ出す。危険な賭けに出た、君が一緒だから安心して任せたんだよ。”アレクセイに
会わせてやりたい。”君の想いが奇跡を起こしたんだ。
リュドミール、乗り越えられる。人生で一番の命を賭けたこの危険な賭けに。」
「ピエール、続きはどうするんだ ? ぼくがここへ来て。」
「亡命するんだよ。スイスへ、亡くなった君のお母様の妹さん、スイスのジュネーブに嫁がれている叔母さんの所へ。」
「 どうしてそれを知っているんだ ? 母とぼくは似ていた。兄弟でぼくだけが母似だった。だから、叔母はとても可愛が
ってくれた。昔、何度か家族でスイスへ行ったな。でも、母が亡くなり疎遠になって、最後に行ったのは母が亡くなる前
の年、母と最後の二人の旅行? ……? そうだ ! あの時、もう一人いた ! ピエール ? 君が一緒だった。親友のピエール。
君に、美しいスイスをどうしても見せたくて誘ったんだ。」
リュドミールの脳裏にあの日がよみがえります。
「ぼくはね。楽しくて、楽しくて、スイスから病院へ絵葉書を出したんだ。それを父は大切にしまっていた。君がボリシ
ェビキに入りこうなった時の為に連絡を取ってくれた。リュドミール、手紙は凄い! 人と人を繋げる不思議な力がある。
おば様はそこに居られた、ロシアがこうなって君の事を心配しておられた。重大な危険が君に迫ったら、その時は君を受
け入れてくれる。保護してくれる。待って居られる、スイスのジュネーブで。」
ズボフスキーは真剣な顔で、
「ここで傷の手当が済んだら、変装しなさい。髪は黒く染めストレートに、髭を着け、眼鏡を掛ければ立派なマクシムの
医者仲間だよ。マクシムが最後までお供する。ほら、身分証明も完璧だよ。」
「オレがずっと一緒だ。安心しな。道程は、ズボの親父と、大先生が考えてくれた。飛びっきりだよ。オレの頭に完璧に
入っている。迷子にならずに連れて行ってやる。スイスのジュネーブヘ。」
「今夜の最終便列車、ムルマンスク行き。ボリシェビキ支配下の町、一時は廃れていたが、漁港も建設され活気が出てき
た町だ。そこから、エストニア・タリンヘ、美しい町。北を経由する道程を考えた。回り道だが、急がば回れ ! 傷を癒
しながらゆっくりとスイスへ入ればいい。
お金の心配はしなくていい。こうなった時の為に大先生と二人で積み立ててきた。7年間たんまりある。マクシムに渡し
てあるよ。生き抜いてくれ! リュドミール! 別れてもずっとずっと、仲間だよ。」
ズボフスキーは時計を見て、「じゃぁ、先に行く。30分後、正午12時に出てこい ! 倉庫の表から 」
そういい残し、ズボフスキー。続いて、マクシムが出て行きました。リュドミールとピエールは抱き合います。そして、
無言の別れ。12時ジャスト、リュドミールは表へ出ていきます、あの夫婦の家をチラチラ見ながら、
「あっ ! あいつだよ。オーイ、オーイ、おっさん ! 懸賞金がやって来た。おっさん。」
リュドミールとズボフスキーの目が合いました。
「この裏切り者 ! ずっと騙していたんだ。反逆の機会を狙って、お前にはこれをお見舞いしてやる。」
“バーン! ”弾がリュドミールのわき腹を掠め、”ババーン” 2発目がそのわき腹の上に食い込みました。焼ける様な痛
みが全身にリュドミールは振り返ります。ズボフスキーの顔が涙で濡れていました。“痛い ! 痛い”体験した事のない
苦しみ、身を返し。ネヴァ川ヘ“ズボさん、さようなら”心で叫び飛び込みました。“たっしゃでな、リュド”心で返
答。ズボフスキーは1発、2発、3発、川に向かって銃を発射しました。
ズボフスキーは夫婦に懸賞金だと、大金を渡し。共に、ボリシェビキの仲間の所へ「裏切り者を始末した。」と、言いふ
らし。その足で上部の人々にも「リュドミール・ユスーポフの息の根を止めた。」と、報告しました。
そして、緻密に緻密に練られた。リュドミールを助ける作戦が決行されたのでした。
大怪我のミーナは眠りから覚めます。顔の手足の感覚がありません。背中がずきずき痛みます。ぼーっと、天井を見詰め
ています。微熱が続いているため、時々リーザが額のタオルを替えに、その度にミーナはいやいやを、頭を横に振ります。
“ぷくぷくに醜く腫れたお顔を見ないで。”お口が効けないからの合図 。リーザは悲しそうに出ていくのでした。“でも
リュドミールには会いたいなぁ、どうして来てくれないの ? ”そう思いながら、♪赤いサラファン♪を鼻唄で、すると。
なぜかすーっと痛みが退くのでした。
数日後、やっとお父さんのアレクセイが帰って来ました。ミーナのお顔の腫れも退き初めお話出来る様になっていました。
病院の人々もほっとします。
「リュドミールは ?」 誰が説明したらいいのでしょう ? 大先生が話す事になりました。
ミーナは静かに聞き入ります。「きっと無事にスイスへ向かっている。ミーナの国のドイツとスイスはお隣同士、お手紙
を書きなさい。」ジュネーブの住所のメモももらいました。
食欲も出て来て、手足も自由に動かせる様になります。後は背中の痛みだけ、お父さんが「痛みがひいたらドイツへ行こ
う。」そして、11月1日に出発が決まりました。最初の予定日、12月1日より、1ヶ月早くなりました。短い期間で大急ぎ、
旅立つ準備をします。
10月31日。旅立つ前の日、みんながお別れ会を開いてくれる事になりました。父娘はお世話になったお礼に音楽をプレゼ
ントしようと相談します。曲は何にしよう?
そして。お別れ会、最後。ミーナは心を込めて歌います。お父さんのバイオリン伴奏に合わせ曲は♪カロ ミオ ベン♪
ミーナがママンにオペラの曲として初めて教えてもらった曲。リーザも同じです。幼き頃、オペラの入門曲として、ママ
ンに歌ってもらい、指導を受けました。
♪カ〜ロ ミオ ベン ♪で始まる優しく、ゆったり流れる曲、ミーナもリーザも大好きな曲。
ミーナはこの歌をアパートでも歌いました。美しい歌声はアパート中に響き、管理人のおばあちゃんは拍手。
「ハラショー。」
イワンにも、マクシムにも、裏のナターシャお姉ちゃんにも披露、ゆったりと静かな幸せな別世界が広がるのでした。
今日もみんな。体を揺らし、優しい笑顔で、心に染み込むこの曲を聞いてくれました。
早朝旅立つ父娘の為、お別れ会は早めにお開きとなりました。
そして、最後の最後の夜。
アレクセイはズボフスキーと夜深く、語り合いました。
ミーナとリーザは二人仲良く、一緒に休む事に。
「ミーナ、お星様綺麗。」「うん、綺麗。」「お空はずーっと繋がっている。お別れしても、そのお空の下にミーナがい
る。そう思うと寂しくない。」「わたしもそうやって。リーザさん、思い出す。」「ずっと一緒。」「ずっと一緒。」
「忘れない。」 「忘れない。」
出発の日、朝早く。イワンがお弁当を持って来てくれました。
「今日いっぱいかかって二人でゆっくり食べな。しっかり火を通しているから安心だよ。」
駅まで送っていってくれます。
旅立つ。父娘、病院の人達とは玄関でお別れ。アレクセイはリーザ、ピエール、大先生と抱き合います。
ミーナの瞳がうるうると熱くなります。でも、涙は頬を流れる事なく。すーっと、退いていくのでした。そんな瞳を細
め、にっこり笑います。
「いい笑顔だね、ミーナ。」 「ダンケ シェ (Danke、schoen「ありがとうございます。」)大先生。」
「元気で、ミーナ。」 「ダスヴィダーニャ(ロシア語で「さようなら」)、若先生。」
リーザは涙を堪えます。声を出したら溢れてきそう。 そんなリーザの背中にピエールはそっと手をかけ、ポンポンと励ま
します。そのとたん、目の中は風が吹いた様にすっきりと。
「わたし、忘れないずっと ! ミーナもね。」 「 ダコー! (D'accord「もちろん。」)リーザさん。」
早朝の駅は静か。でも、停まっている列車にはかなりの人が乗っています。駅員も車掌もとても若い青年、「一番前なら
まだ席は空いてるよ。」
ミーナは急いでリュックから、巾着を出してイワンに渡します。中にはくまのミーシャが。
「何 ? オレにくれるの ? 」「うん。ずっと、ずっとありがとう。お別れのプレゼント、母ちゃんとイワンのお店に飾っ
て。わたし、7歳。一人で寝れる。ナターシャお姉ちゃんにミーシャの着替えしてもらってね。」
「あぁ、任せとけ。ありがとう、ミーナ。思い出、ありがとうな。」
アレクセイとミーナはまっすぐ前を向き、胸を張って。列車に乗り込みました。一番前の車両には、席が並んで2つ空い
ていました。
“カタン コトーン カターン コトン カタコト カタコト カタカタカタカタ”列車の音に併せ、体も揺れます。父娘
は荷物を下ろし、バイオリンを膝に置きました。アレクセイは手をミーナの肩に「お父さんの手、冷たい。でも、大きく
て、柔らかい。暗いお空が青くなっていく。あのずっと向こうにお母さんがいる。会うの嬉しい、嬉しいね。お父さん!」
「あぁ、お父さんも嬉しい。嬉しい、ミーナ。」
4話が最後です、舞台はスイス。
ミーナ
|
|