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彼女はちょっと迷うような表情を見せた……この話を聞くのは何度目だろう? 素直に聞いておい
たほうがいいのだろうか、このひとの十八番の長話……だが、彼女にはある焦りがあった。
暁闇の底にもう、わずかな白い色が差している……。
「父さんと母さんがドラマティックな大恋愛だったのはもう知ってるわ、忘れたの?」
「おいおい」「私の両親の話なんて……なんだか気恥ずかしいわよ、もう」
「困った娘 だね、マーシャ」「メートヒェン、って歳じゃないわよ」
今度こそ、彼女はしっかり相手に向き直って華やかな笑みを見せた。ヴァイオリニストとして多くの
舞台で、喝采を浴びながら浮かべた笑みだ。もう若い女ではない。自分の足で世界を踏みしめて歩い
てきた、人生の中盤を生きている女の顔だ。
「ひとの話じゃなくて、ご自身のお話を伺いたいわ、ダーヴィト伯父様」
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妻は少し身を寄せて、夫の肩に頭を預けた。夫が彼女の肩に手を置いた。分厚いショールを通し
て、その重みと温かさを感じると体が温かくなる一方で、嗚咽に似たものが胸の奥から上ってくる。
「長かったわね、あなた……」
「私にとってはあっという間だったよ。君がいてくれたからね、ゾフィ」
ゾフィ。そう呼ばれるのは随分久しぶりだ……青年将校と書店主だった頃以来? 官僚と秘書官?
そうだ、結婚を申し込まれた時にはゾフィと呼ばれたんだわ……。
「そうね、思ったよりは短かったかも、40年間にしては」
この季節、高緯度地域の夜明けは遅い。ロシアの大都市の中でも、レニングラードは緯度が高いほ
うである。
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「皆さんも新聞などで、ご覧になったことと思います」
そういった途端、教頭が顔をしかめたような気がする。図書室にだって新聞くらいあるでしょう
が、街で買って読んだとしてもいいじゃないの、それくらい。石頭の戦前派オヤジ。ジャニーヌ
はお嬢様学校の女性教師にあるまじき悪態を、それでも心の中だけでちょっとついてみた。最前
列で青い目をキラキラさせている少女の顔が目に入る。ハリウッド女優だった母から美貌を受け
継いだこの娘の父親は、テキサスの石油王だ。そのそばで退屈した子猫のような顔をしているの
は、イギリス貴族の令嬢。この観測会が彼女たちの親を怒らせるなんて、それは深読みのし過ぎ
というものだろう。
「火星には二つの衛星、フォボスとダイモスがあります。軍神アーレスの二人の息子にちなむ名
前ですね。それに対し、水星と金星には衛星がありません。そして地球には、ただ一つ、月があ
ります……」
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「私が生涯をかけて待ち望んでいたのは、ただこの日のことだ!」
彼の言葉はこののち幾度となく語り継がれることになる。
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美しさという点では、母や伯母に見劣りするかもしれない。でもこの娘には、とダーヴィトは
思う。この娘には、彼女たちにはなかった周りを力づけるような明るさと健康さがある。ああ、
そうだ。そこは父親譲りだ。随分いろいろなことがあったろうに、あの男は学生時代に見せてい
たあの表情をきっと持ち続けていたのだ。
「何を期待してるのかな、マーシャ。僕たちの場合、君の両親ほどドラマティックだったわけじゃ
ない。君のお母さんのことを心配したイザーク・ヴァイスハイトが、相談に乗ってやってほしい
と僕に連絡してきた。それが僕と、君の伯母さんの出会いで、半年後に結婚して、その5年後に
君がやってきた……その先のことは君だって知ってるだろう?」
「うーん、そうはいってもね……伯父様はともかく、伯母様ってそういうタイプじゃないと思う」
「いろいろあったのさ……大戦があって、みんな頼みを求めていた時代だったし……」
そう言ってダーヴィトはかすかに皮肉な笑みを浮かべた。大戦といえば、彼女の世代なら自分た
ちが一番大きな犠牲を払った2度目のそれを思うだろう。既に世代の差はばっくりと大きな口を
開けている。
「君は伯母さんとはあんまり反りが合ってなかったみたいだしね」
「そんなことないわよ」マーシャの反応は速く、思ったより激しかった。
「厳格な人だな、とは思ったわ……頭が古いって思ったこともあるし。綺麗なひとで若く見えただ
けに、その差が大きかったのよね」
驚くほどママに似てたのよ、と聞こえないようにつぶやいた。年齢も目や髪の色も違うのに、ど
うかすると「ママ」と呼んでしまうほどにやはりよく似ていた。どうかすると甘えた気持ちがど
っと伯母に流れてしまいそうで、それが母への裏切りのように思えて、10代の彼女はどこか構え
た態度をとっていたのだ。
「そうかな、僕から見たら君のお転婆が過ぎる気もしたけれどね」
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彼の肩に寄せた頭は、かつては輝かしい黄金色の巻き毛だった。今では金色の上にくすんだ銀
色がかぶさっている。月の光のようだ、と彼は思う。優しく撫でた。
二人の40年は、そのままこの国の誕生から現在までだった。出会った頃の何かに浮かされたよう
な時代は、今思うとずっと遠いもののように思える……家出してきた貴族出の若様と、戦争と革
命の騒乱の中で死んだ父親の残した書店を四苦八苦して守っていた本好きの娘。気が強くて打て
ば響くような物言いをしていたドイツ系の美少女は、若い革命同志たちのマドンナだった。新時
代参加の意欲に燃えて店をたたみ、モスクワへと移ってきた彼女がいなければ、家族を捨ててき
た彼はずいぶんと孤独な思いをしたことだろう。そう、遠いようで、あの時代は彼の心をいつだ
って温めてきたのだ……。
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ジャニーヌの説明が終わると、コーヒーとオペラグラスが配られた。自前のものを取り出した
娘もいる。中には、ベル・エポック時代を生きたおばあさまがオペラ座でニジンスキーのバレエ
を見るのに使っていた等と説明されそうな時代のついたものもある。フランス巻きにパニエで膨
らんだスカートを曳いた当時の女性たちは、こんなものを見る日が来ると想像しただろうか?
パリ解放の時10歳だったジャニーヌは、戦争を知らない子供呼ばわりをされることも少なくない。
何が悪いの、と思う。良い時代に生きている自覚はある。肋骨が歪むほどにコルセットを締め上
げる代わりに大学で学び、今こうやって、誇りをもって最新の科学技術を教えている。教壇を降
りようとしてちょっと可笑しくなった。汚れないように引き寄せた、ニュールック風のふんわり
したスカート。おばあちゃんはこれを見たときに「あら懐かしいこと」って言ってたっけ……。
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「ソヴィエト 地球周回衛星を宇宙に発射
時速1万8000マイルで地球を周回
球体はアメリカ上空を4回横断」『ニューヨーク・タイムズ』10月5日付」
「神話が事実に変わり、地球の引力は征服された」『ル・フィガロ』
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