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「お転婆ねぇ」マーシャは苦笑した。「校長先生と伯父様が旧友なの忘れていたわ」
「バッハのトッカータとフーガをスウィング調で弾いたのは後にも先にも君だけなんだって?」
「ああもう、伯父様最近古い話が増えたわね。私はあの音楽学校の女子第1期生だった。そりゃ気負いもありまし
たよ。花嫁修業なんて言われたくなかったもの」
「1939年のベルリンはお転婆で済むことじゃないだろう。伯母さんがどんなに心配していたことか」ダーヴィトは
旧市街に目を据えたままである。
「気づいてたんだ」「気づかれないと思っていたの? 伯母様が、節を曲げてブリエナー通りの褐色館のパーティ
に出たのも君のためだったんだぜ?」
「伯母様が?」「あのひとがヒトラーを支持するはずがないだろう。33年には損を承知で、IGファルベン株を二
束三文で叩き売った人だよ?」
「古風で保守的な人だったから……」「古風な頑固者だ。悪意に酔い憎悪を煽るのが政治だと思ってるような連中
のことは、心底軽蔑していたよ」「なら……お転婆なんて言われたくない」
ダーヴィトはゆっくりとほほ笑んだ。この娘は、唇の端をかむ仕草が妻そっくりだ。
「そうはいっても、大事な君が収容所に送られるというのは話が別だった。君がそう行動すると思っていたからこ
そ、あんなにも心配してたんだ、彼女は」
「……多分分かってたわ、私」「おや?」「伯母様も分かっていたと思う」
心配していることも分かっていたが、それでも理解してもらえるという気持ちもあった。何より、伯母は、あの時
の秘めた恋までお見通しだったのだから……。
「何だか嫉けるなぁ。女二人に締め出されたみたいな感じだな」「そこで嫉く?」
マーシャはことさらに陽気な声を上げた。「養女……にまで焼きもちを焼くわけ?」
「そりゃそうだよ。マリアさんは僕の一番なんだから、同じくらい愛してもらわないと」
*褐色館=ナチスのミュンヒェン支部所在地。
*IGファルベン=戦間期にドイツの多くの化学産業が合併した巨大トラスト。ナチスに積極的な協力を行った
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ヴェーロチカも見てるかしら?」「当然だろ」
娘は教師となって、今はプラハにいる。父親が外交官として一番多忙な時期に感じやすい少女時代を過ごした娘は、
闊達で物怖じしない若い女になった。いささか闊達すぎるほどに…彼女が外国で暮らしている、という事実は時には
身を揉むほどに心配ではある――昨年ハンガリーではあんな事件があったばかりだ――が、時にはそれがあの娘に相
応しい、あの娘が伸びやかに生きるために必要な運命だったような気もする。
隣のヴェランダでもごそごそ音がする。隣人のサムイル・オレゴヴィチが、大戦中に使っていたような双眼鏡を覗
いている。アルビナ夫人が軽く会釈をよこしたのに、ゾフィは子供のように手を振って返した。いい時代になったも
のだ、とリュドミールは思う。サムイルが駐独大使館付き武官だったころは、二人は互いに命を賭けた疑心暗鬼の中
で暮らしていた。モスクワに先に召喚された方はルビヤンカ経由でシベリア送り。結局大戦の勃発でうやむやになっ
て、今ではこうやって隣人として暮らしている……。
*ルビヤンカ:スターリン麾下の刑事・秘密・国境警察兼諜報機関だった内務人民委員部=NKVDの本部所在地
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娘たちが集めたコーヒーカップを、ジャニーヌは教頭と二人で食堂に運んだ。マダム・ブサックを起こすのは気の
毒だと、どちらからともなく台車に手をかけた。
「洗っておきましょうか?」「それには及びませんよ」
大げさに腰を叩きながら教頭が言った。
「マダムの仕事です。横合いから手を出すのはかえってあの人に失礼だ」
「もうすっかり明るくなりましたわね」「今日の授業は居眠りが多いことでしょうよ」
貴女のせいですよ、とばかりに教頭は不機嫌な顔を背けた。「で、どうでしょう?」
「どうでしょうって?」「ですからマドモワゼル・デピネ、衛星は明日も見えるんですか?」
「ああ、それは心配ありませんわ。いつかは失速するでしょうが、しばらくは観測できるはず。夕暮れか夜明けか、
空が暗くても太陽の光が衛星を照らしている時間なら」
「まぁそうなんですか。私でもわかりますかね?」
マダム・ブサックは寝ていなかったようだ。「ええ、大丈夫。はっきり動いている星はそれだけですもの。流れ星と
違って、あまり明るくはないのですけれど」
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「ソ連が誇らしげに「スプートニク衛星を軌道に投入」と発表した時、世界中の人び
との受信機が、正確に96分おきに、静かだが安定した『ピーピー』という音を奏でた。
日没直前か日の出直後、地上は暗いが衛星には日光が当たっている時間帯に、この『空
飛ぶボール』は太陽の光を反射してキラキラと輝き、人びとは感動と不思議さに心を浸
されながらそれを見上げた。新聞やテレビ・ラジオでは、スプートニクは4等星ぐらい
の明るさだと報道していた。そしてこの驚くべき人工の星の反射光を見た人は、何かし
ら幸せな気持ちに包まれた(当時高校一年生だった私も、その一人だった)。」
(的川泰宣著『月をめざした二人の科学者―アポロとスプートニクの軌跡 』より)
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「ほら、あれ、あれよ! 動いてるわ!」
暗闇が柔らかな藍色に溶けて、わずかに揺らめくような小さな星が二人の目を引いた。
「ああ、綺麗だねぇ」ダ―ヴィトはゆっくりと目を細める。そして持参のオペラグラスをマーシャに手渡した。
伯父の手は乾いて冷たい。それが彼女の胸に小さな冷たいものを落とす。まるで貴婦人に対するように、長い
旅を経てレーゲンスブルクに着いた彼女の手を取った時、このひとの手はどこまでも大きくて優雅で温かかっ
た……。
「ここで見られてよかったわ」「え?」「この街で、伯父様と一緒に」
そう、あの時、あの手に恋したのが私の初恋だったのよ。多分これは、伯母様も知らない。
「これで安心してパリに帰れるわ」
安心? このひとは老け込んだ。妻の死以来。思いの深さの分だけ。……オルフェウスの窓で出会わなかった
せいなのかしら? 誰にも言えなかった初恋はもう永遠に届かない。
「クリスと見たかったんじゃないのかい?」「向こうで見るわよ、一緒にね」
マーシャは微笑んだ。半泣きに見えませんように、と願った。
「あの星はしばらく見えるはずだもの」「気を付けるんだよ」
「伯父様こそ」空はもう明るい薄桃色に染まっている。「トルーディが心配していたわよ」
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「リュディ! 見てみて!」ゾフィが腕をゆすぶってくる。「どこ?」「あそこ!」
ぽん、と手元に軍用双眼鏡が落ちてきた。向こうを向いたままのサムイルに、笑顔で空を指さすアルビ
ナ。今となって思えば、彼女の噂好きは人の好さの表れだったのかもしれない。情報を集めて流して、
あの頃は随分恐ろしく思えたが……権力者ベリヤにつながっているという噂は誰が流したものだったの
だろう。そしてそのベリヤが求めたのは、外交官夫人の中で一番美しいといわれたソフィヤ・ユスーポ
ヴァ夫人だという噂は……。
今のゾフィは子供のようだと思う。あの頃は何を考えているか分からない女だと思った。だからあの
時、彼女に惹かれたのだろうか? ゾフィの夫であることもソヴィエトの代表者であることも放り投げ
てしまいたい、と思わなかったといえば嘘になるだろう……。
「見えるかい?」返事の代わりに双眼鏡を押し付けてきた。二人で片方ずつ覗く。
「見えるね」「見えるわね」……脳裏に映るこの輝きは、どちらの目が捉えたものだろう?
子供のように肩を寄せて、一緒に笑い声を上げて。ああ、夜が明ける。
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いったん校舎の外に出たとき、それに気が付いた。校長室のフランス窓できらりと何かが輝いた。眼
鏡だった。目を凝らすと黒いドレスを着た長身のシルエットが見える。部屋の明かりをつけないのは星
を見るなら当たり前だが、しかしそれにしても厚みのない薄い儚い影法師に見える。声をかけるのも躊
躇われるような静かな姿だった。
校長だ、と思ったとき、ジャニーヌは校長室を目指していた。よく考えたら、教頭を呼ぶのが普通だ
っただろう。人影が校長だとは限らないのだし、押し込み泥棒の可能性もある。だが、そのとき彼女は
それが校長だと確信していたし、その静かすぎる姿がひどく恐ろしいものにも感じられていた。
東向きの校長室には、すでに儚い曙光が満ちていた。湖にきらめく波は薔薇色に光り、そして空には、
心もとなげに震える星々に交じって、スプートニクが輝いていた。
祈っているのだ、とジャニーヌは思った。彼女は祈っている。どこの神かは知らない、ただひどく遠
くにある何かに思いを懸命に届けようとしている。この方角は彼女が40年前に離れた故郷、ジャニーヌ
の知らない大事な人に繋がっているのだ。
ヴェーラ・ユスポフの背中は、それでもぴしりと伸びていた。
祈っているのではない、語りかけているのだ。ジャニーヌの知らない時代の苦難があったとしても、
ユスポフ校長はいつでも誇りかだった。故郷から飛んできた星に対しても、微塵も臆することもなけれ
ば、愚痴ることもない。
あの儚い影は、堂々とした白髪の貴婦人となってジャニーヌの前に聳えていた。
あたりに穏やかな光が溢れ、人工の星影は薄くなりゆく茜色に溶けてしまいそうだ……。
「おはようございます、美しい朝ですね」
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まだうら若き朝の空
きらめきわたる星のうち
いと/\若き光をば
名けましかば明星と
島崎藤村「明星」
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ENDE
