なつ様



ある日の午後。
この日、アレクセイの仕事が休みだったので、2人は一緒に市場に出掛けた。
5月に入り、昼間はずいぶん暖かくなっていた。

ユリウスはアレクセイと一緒に出かけるのが久しぶりだったので、喜びを隠せなかった。アレクセイを見上げると、彼もユリウ
スを見ていた。お互い微笑み合い、さらに体を寄せ合う。
ついつい2人だけの世界に入り込みそうになった時、何処からともなくバイオリンの音が聴こえてきた。
「あ…、バイオリンの音…」
「バッハのメヌエットか。この弾き方は、まだ習い始めの子ども…だな」
アレクセイは懐かしそうな眼をして言った。

「…懐かしい?」
「ああ。おれにもあんな頃があったな」
ユリウスは、彼の左手が動いている事に気がついた。

−きっとバイオリンが大好きだったんだね。あなたに別の人生があったのなら、絶対バイオリニストになっていたはずだよね。

すぐに話は別の話題に移り、楽しい会話をしながら市場に向かった。
市場で必要なものを一通り買いそろえ、帰りも同じ道を通った。
行きに聴こえていたバイオリンの音は、帰り道では聴こえて来なかった。

「バイオリンの練習、終わっちゃったのかな?」
「小さな子どもだったんだろう…。そんなに長く集中力は続かないさ」
「あなたもそうだったの?」
「いや、バイオリンは別だった。よく時間も忘れて弾き続けていたな…」
ユリウスは彼のその言葉を聞いて、胸が痛くなった。

諦めざるを得なかった彼のもう一つの夢。
−辛くない?
そう聞いても、きっとあなたは笑って答えるだろう。
−辛くなんかないさ。おれには命をかけて叶えたい夢がある。…今はそれだけだ。

その思いに…、99.9パーセント、ウソはないと思う。けど、残りの0.1パーセントは…。

急に黙り込んだユリウスに、アレクセイは声をかけた。
「どうした?」
「…何でもないよ」
ユリウスは瞳の中の哀しみを隠し、彼に向け笑顔で答えた。
アレクセイは一瞬軽く瞳を閉じた後、優しい笑顔を返した。

アパートに着き、ユリウスはすぐ夕食の準備に取り掛かった。
今日はアレクセイの特別な日…彼の誕生日だった。




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