瀟洒な、大戦前の趣のあるホテルだったことは覚えている。中庭のカフェで、壁のあちこちに蔦の葉が這わせ
てあったことも覚えている。だが、そのくらいだ。なのに、彼女……ラッセン夫人については、瞳の色、髪の色、
着ていた紺色のドレス、襟元の白いレースの木の葉模様やつば広帽の葡萄の飾りさえ、絵に描けそうなくらい記
憶は鮮明なのだ。
 そのひとは、中庭に入ってきたふたりを見ると、わずかに顔を上げた。
「待たせたかい?」話しかけるラッセン中尉を軽く制し、エーリヒに矢車菊の瞳を向ける。
「ヘル・エーリヒ・グリュンデナーですわね? マリア・バルバラ・フォン・アーレンスマイヤ=ラッセンです。
妹の件でのお骨折り、深く感謝しております」

 よく考えたら分かったはずのことだった。死んだ女性についてあれほど詳しい情報を得るのは、いくらそつの
ないラーセン中尉でも、本人と夫の昔なじみというだけでは無理だっただろう。ユリウス嬢の遺族……姉という
ひとから余程の信頼を得ていることは明らかだった。そしてそれほどの信頼を得たのならば……。「じゃあ、僕
は部屋に戻ってピルスナーを取ってくるよ」中尉は、妻の頬に軽くキスをした。夫人の表情は変わらない。
「エーリヒ、ちょっと待っていてくれ」

 「妹さんは、ご不幸なことでした。お悔やみ申し上げます」
「……あの娘は不幸だったのかしら?」下を向き、ごくごく小さな声で、彼女は呟いた。
幸せな死に方ではないのは確かだと思ったが、それをいうことは憚られた。
「ごめんなさい、おかしな言い方をしました」「いえ、まだお心が乱れて当然でしょう」
夫人は顔を上げ、正面から彼を見つめた。美しいひとだ、と思った。そして……
「……妹さんに似ておられますね」夫人は片側の頬だけで微笑んだ。
「似ている、と言われたことはあります。でも……貴方は写真でしかご存じない。あの娘は本当に綺麗だった。
金色の髪も碧い眼も、何もかも光り輝くようで……私たち姉妹は、母が違いますのよ。あの娘は母親の華やかさ
を受け継いでいました」
「失礼、立ち入ったことをお聞きしてしまった」「死んでしまったひとたちのことですわ」
死んでしまった? だが、彼女は今でも妹の死を受け止めかねているのではないのか? それとも? ユリウス・
フォン・アーレンスマイヤの死を納得できていないのは、彼女ではない……? かちゃり、と紅茶碗が鳴った。
あ、と小さな声が漏れる。
「こぼしてしまったわ」染みの付いた白い手袋を外した。
エーリヒは息を呑んだ。骨細で華奢な手は、それだけで後光を放つかのように白く、向こうが透けて見えるので
はないかと思えるほど繊細だった。
「どうなさったの?」
「…少し驚いただけです。貴婦人というものは、美しい手をしておられるのですね」
一瞬夫人は微笑もうとしたが、すぐつ、と目をそらせた。「白き手のイゾルデ、ですわね」

 「お待たせしたね」いつの間に?と言いたくなるほど、中尉の登場はさりげなかった。
「ほら、お約束のピルスナー・ウルケルだ。今じゃこれにも関税がかかる」
「サン=ジェルマン条約ですか」大戦後の対連合国講和条約で、オーストリアはチェコ・スロヴァキア・ハンガ
リーなど非ドイツ語圏の領土をほとんど失った。ピルスナーもいまではチェコからの「輸入品」だ。とはいえ、
1年前の国際連盟でのザイペル首相の「泣き落とし」によってオーストリアは一時の経済的な苦境は脱したとい
う話だ……中尉だって、ドイツより故国の方が居心地よくはないのだろうか?
「ちょっと重いかな?」「大丈夫ですよ、年寄り扱いしないで下さいよ」
「してないよ。ホテルにタクシーを呼ばせようか」「いいですって」
ふと、夫人と目が合って、エーリヒは頬が熱くなるのを感じた。彼女はこういう場合、迷いもせず乗り物を呼ぶ
ような育ち方をしてきたに違いない。そして今でも。着ているエレガントなシフォン地のドレスは、戦後出てき
た吊るし売りの代物ではないだろう。優雅な生活しか知らない女性……それはバイエルン貴族としての資産によ
るものなのだろうか? グスタフ・ザハリッヒの手紙が甦る。「10歳以上も年上の貴族の跡取り娘」……。
「いいさ、腕が痛くなっても知らないぞ。でも、明日動けないなんてことは許さんぜ」 
「明日?」                                             
    「そうさ、ベルリンには10日の滞在なんだからね。その間にカタをつけないと」
いや、違う……中尉は資産目当ての結婚をするような男ではない。それに、この聡明そうな夫人は金目当ての男
が分からないほどバカではないだろう。だが……愛した女性の面影を、その姉に見出しての求婚ではない、とは
言い切れるのだろうか……? そして夫人は?
「カタ?」「ユリウスの件だよ。僕たちも調べるんだ」「ダーヴィト」夫人が口を開いた。
「グリュンデナーさんに、無理を言ってはいけないわ」
「大丈夫だよ。この男は、無茶を言われれば言われるほど、実力を出すたちなんだ」
「無茶苦茶よ、そんな」「……いいですよ」自分のどこから、そんな言葉が出たのだろう?
「どうせ失業中の身です。とことんお付き合いしますよ。僕だって、この仕事には満足していない。このまま資
料をお渡ししておしまい、では自分でも納得できないんです」
「ほらね」なんで中尉はこんなに勝ち誇ったみたいな声を出すんだろう? なんでその声がそんなに気に障るん
だろう?
「じゃあ作戦会議だ。元帥は君だよ、マリアさん」
「そんな。私まだ、この方の資料だって読んでいないのよ」
「なら会議は延期だね。エーリヒ、君、明日彼女を美術館島に連れて行ってくれないか?」「美術館?」   
「彼女のお父さんが寄付した大理石像があってね。頼むよ、僕は午前中仕事で人に会わなきゃならない。午後に
は合流するから、ね」
「仕事?」中尉のこの羽振りは仕事のお陰なのか?「何の仕事なんです?」
「奴隷商人さ」笑顔を崩さないまま、ダーヴィト・ラッセン中尉はそう言った。