「良からぬ商売でも始めたのかい、エーリヒ・グリュンデナー」
車を借りたいといった途端、パウル・クライスは眼を剥いた。苦笑しつつ、エーリヒはラッセン中尉の
仕事……「奴隷商人だよ」……は一体何なのか、と何度目かの思案を巡らせないではいられなかった。
「そりゃ状態は上々だよ、暇に任せて手入れはしているからね。だがあんた、ガソリンの値段ときたら!
人間の血を燃やした方が安く上がろうってもんだ」父の従弟に当たるパウルは、郊外に農場を持ってい
た。そこのジャガイモの収穫が去年、20万マルクのメルツェデス・ベンツ――ラッセン夫人に相応しい、
三芒星を飾った黒光りする美しい車――に化けたのだが、これは結構な投資だったというべきだろう。
この手の車は今では2000万マルクは下らない。ベルリンっ子をどこか鼻にかけていたグリュンデナー一
族にとってパウルは「田舎臭い」みそっかすであったが、今では皆そんなことには口をぬぐっている。
「ガソリンは入れて返しますよ」パウルの目が光った気がした。
「ならついでに、タイヤも替えておいてくれ」
長身痩躯のラッセン元中尉と、すらりと姿のよい夫人。新古典様式のホテル・デメテルのロビーに佇
む夫妻は、絵のようにロビーの風景にしっくり馴染んでいた。似合いのふたり……なのに、どこかに悲
哀の空気が漂っているのは何故だろう? 彼女の銀灰色のスーツが僅かに青みを帯びているせいだろう
か? ユリウス・フォン・アーレンスマイヤ。夫人の美しい妹の蒼ざめた面差しが、夫人の横顔に重な
って見えた。
「おはよう、グリュンデナー少尉。本日の任務は…」「もう10時ですがね」
「僕は夜型なんだ」夫人は傍らで、儀礼的な微笑を浮かべている。妹と同じ微笑……。
「車を借りておきました。ご婦人連れでもあるし、車の方が色々便利でしょう」
「手回しがいいなぁ君は。どれ、ホテルに預けてあるのかい?」「運転は僕がします」
レマン湖畔の悪夢は思い出したくもない。時速40キロ以上だと方向変換できないが、40キロ未満では真
っ直ぐ走れない。それがラッセン中尉の運転なのだ。
「あなたの負けよ、ダーヴィト」このひとは、どうして笑うときが一番悲しげなのだろう?
とはいえ、メルツェデスにはホテルで休んでもらうことになった。ウンター・デン・リンデンから美
術館の並ぶムゼウムス・インゼルまでは、婦人の足でも10分弱、しかもクッパーグラーベン川に沿った
その眺めは、ベルリン屈指の建築美を誇っている。
「お疲れになりませんか」「いいえ」
流行のクロッシェ(釣鐘)帽は、女性の顔を7割方見えなくしてしまう。夫人も背が高い方だが、横に
並んだエーリヒから見えるのは、帽子を飾る青いリボンばかりだ。
「中尉もひどいひとだ。奥方をほっぽっておいて、何の仕事なんでしょうね?」
夫人は少し顔を上げて薄く笑った。「聞き出すのがお上手ね」元情報部員は肩をすくめる。
「あのひとは今、若い音楽家を各地の劇場やオーケストラに紹介したり、音楽会を企画したりする仕事
をしているんです。最近では、アメリカの方を案内することが増えました」
あのドル札の出所が分かった。「それが……『奴隷商人』ですか」
「どうしてあんな言い方をしたのかしら……ひどく偽悪的だわ」
ウンター・デン・リンデンの向こうに、中天にかかりかけた陽を浴びたベルリン大聖堂が威容を見せて
いる。いささかくどくどしいほどに荘重なファサード、ベルリンっ子のエーリヒにとっては、竣工当初
から知っている少し気の置ける幼馴染のようなものだ。
「このあたりは、随分変わりましたのね」「以前にも来られたのですか?」
「そのころはアルテス・ムゼウム(旧館)にナツィオナールガレリー(旧国立絵画館)に……カイザー
・フリードリヒ美術館(現ボーデ美術館)着工のときでしたわ」
「父上が、美術館に寄贈をされたとか」一瞬間が空いた。
「曽祖父が考古学マニアでしたの。カステル・レギナの遺構から掘り出したローマ時代の大理石像を、
父がヴィルヘルム1世に献納したんです」口調がやや冷えた、と思った。
「ローマ時代の大理石像ですね」「アンティノウスの立像ですわ」
「それなら、きっとアルテス・ムゼウムにありますよ……ほら、すぐそこだ」
軍艦を思わせる、重苦しい装飾で飾り付けられたカイザー・フリードリヒ美術館を一瞥し、2人は儀仗
兵のように立ち並ぶ木立を抜けて神殿を模した建物へと歩を進めた。
「前に来られたときは、中に入られたんですか?」
「一応は。でも何も覚えていません。一緒にいたプロイセン貴族の将校が煩いくらいに説明してくれた
のですが」やや顔を伏せた。皮肉な気配が立ち上る。
「……僕は、煩くないようにしますよ」「いいえ、貴方には説明していただきたいわ」
一瞬歩みが止まった。「絵がお得意なのですね。美術にもお詳しいのでしょう?」
しかし、矢車菊の瞳は伏せられたままだ。帽子のリボンは無言である。
レーゲンスブルク出土のアンティノウスは、結局見当たらなかった。
「きっと大したものではなかったのね」夫人の様子はいっそさばさば、という感じである。
「残念でしたね」「父に、見せたかったわ」……彼女らしくない、となんとなく思った。
円形広間はひどく音が響く。小声で話すのもはばかられて、2人は押し黙ったままペルガモン大祭壇の
フリーズを眺めて歩いた。あるいは大蛇を踏みしだき、あるいは盾を振り上げて、古代の神々は躍動す
る筋肉、堂々たる骨格を誇示している。どの一枚をとっても練り上げられた演劇の一場面を思わせる完
成された構図は、エーリヒもかつて何度もスケッチし、実際の舞台を夢想したものだった。だが今日は
……神々の見交わす眼差しはひどく虚ろに思える。いや、虚ろというより、どこかひどくひどく遠いと
ころを見ようとして果たせず、悲しみつつなお視線を彼方に投げ続けているようだ。永遠に。
「彼らはいったい何を争ったのでしょうね? 石に刻まれて、永遠に戦い続けるなんて……随分悲しい
ことに思えますわ」「世界をかけて……でしょうね。世界を正義のものとするために……」
戦時中の安っぽいスローガン。永遠へと続く時の中、2人は無言で佇んでいた。