「2人もいるとはね。1人くらいは用意するとは思っていたが」
「遺族の方は、この2人のことはご存じなかったんですか?」黙ってかぶりを振った。
「やはり偽証でしょうかね。アナスタシア皇女の呪縛がそんなに大きいとは意外でしたが」
「随分あっさり断言してくれたね」ラッセン中尉の目が笑っている。「では、伺おうか」
「分かりやすいのはレンネマン嬢の方だ。彼女は事件当時、現場の退職官吏ドロッセル氏宅の女中だった。事件
以後に男爵夫人のメイドに引き抜かれている。このご時勢としては夢のような話ですよ」。現代風に淡いしゃれ
た色彩で統一された男爵夫人の居室に入ってきた、これでもかとばかりきつく唇をかみ締めていた紺色のお仕着
せの娘。「酷い事件でしたわ。正直に申し上げて、思い出したくもないことですわ。こちらに移ってきた時の忙
しさに紛れてしまったのも無理はないと存じますわ」。言葉付きは生まれた時から貴婦人に仕えてきたかのよう
に滑らかで、だが彼女の立場からするといささか切り口上に過ぎた。そして、家具も壁紙も本来の色を失って灰
色に沈んでいた、ドロッセル氏の家。元帝国官僚は、鷲鼻に知性とかつての権威をわずかに漂わせていたが、お
そらく夜も昼も着たきりのまま過ごしているだろうと思われる暗色のガウンがげっそりと肉の落ちた体つきを却
って強調していた。「恩知らずの小娘が!」唸りのような一声は、耳を覆いたくなるような暗さだった。恩給頼
りの年金生活者は、インフレで一番こっぴどく痛めつけられているのだ。
「転職を餌に偽証させたということだね」「ええ、アナスタシア皇女には、かなり身分のある支持者がいると言
われている。そうした誰かが男爵夫人に頼み込んだと考えました」
「だが彼女の証言はかなり具体的だ。論破は難しいかもね。頭の良さそうな娘じゃないか」
華やかな居室。エーリヒを睨みつけるかのような、怯えもためらいもない茶色い瞳。
「頭もいい。気性も強い。確かに難敵です。ローゲの比じゃないですよ」「なるほど」
マルティン・モーザーの似顔絵の方を取り上げた。「こちらはどう論破します?」
中尉は粋な仕草で、ひょいと中指を振ってみせる。
「簡単さ。『その女性はどんな服装でしたか?』」
「さすがですね。僕は帰宅してやっと気がついた」
フォン・アーレンスマイヤ嬢は死亡時も男装だった。長い金髪は男としては異様に映ったかもしれないが、ちら
りと見た程度では女性とは断言できなかったはずだ。
「この男は銀行づとめだったね…」ふと、中尉の声音が沈んだ。
「信用第一の職場です。このご時勢、ちょっとした醜聞でも馘首の口実になる」
「醜聞がありそうな男なのかい?」ひっきりなしに犬を撫でていた、意外に美しい指が目に浮かぶ。「いえ…気
の弱そうな、むしろ優しげな男でした。でも、そんな男だからこそ、他の人間なら笑い飛ばすようなことでも気
に病んで、偽証を承知したのかもしれません」
「ああ、それはありそうだねぇ…ふむ。どこの銀行だい?」
「銀行員というより官吏というべきなのでしょうかね。帝国銀行です」
思い返せば、その時、確かに一瞬冷たく重苦しいものがよぎった気がしたのだ。だが、次の瞬間には、中尉の声
には薄雲ほどの翳りもなかったのである。
「そりゃぁまた、相手にとって不足はないといおうかな」
初秋の陽は移ろいやすい。汗の染みた夏のジャケットは、やがて冷たく感じられてくる。
「ありがとうエーリヒ、お礼をしなくちゃね」紙ばさみを取り上げる仕草が、やっぱり洒落ている。
「正直納得のいく出来じゃありません。それでいいんですか、と聞くのもうんざりなんですよ」
エーリヒのほうは、立ち上がる気もなさそうで、コーヒー茶碗を両手で持ってテーブルにへばりついている。
「かかった経費はまとめて、紙バサミに清算書を一緒に入れておきました」
「相変わらずマメだなぁ。そのへん、やっぱりプロイセン人だ」
「少し余っているんですが、マルクに換金した分もあるんです。ドルでお返ししたほうがいいか、返金はそれを
伺ってからと思っていました」
「余ったのか。君、意外としぶちんだな。いや、節約上手だよ、感心した」
ラッセン中尉は薄っぺらい紙ばさみを額にあてて、敬礼の真似事をした。
「感心することなんてありませんよ。情報がないから、経費もかからなかった。それだけ」
「そこまで言うことはないよ。うん、全然ない。第一エーリヒ、君の仕事はこれでおわりじゃないじゃないか」
「え?」「これからが作戦会議だろ。僕のホテルに来てくれたまえ。ウンター・デン・リンデンだからここから
ちょっとあるけど、君の家は確かミッテだったね? 帰る途中に立ち寄ったと思えばいい」
「よく覚えていますね」ちょっと可笑しくなった。「いつ話したんだろ、そんなこと」
「野戦病院ではそんなことばかり話してたじゃないか、戦前の話、奥さんとのなれ初め…」
次の瞬間、愛想のいい中尉の顔が凍りついた。エーリヒより早いくらいに。「…いや、失礼」
「7年も前のことですよ」「君、今実家だったね…」2人の声が不協和音を奏でる。
「それに、もう弟も死にました」エーリヒの声が落ちた。ギロチンの刃のように。
「ああ、みんな死んだ…」中尉の声は、斬られた首のように力ない。
「…みんな、死にました」
クーア・フュルステンダムの昼は翳る。男が、女が、若者が、老人が通ってゆく。だが、あの中に、家族を、友
達を、愛する人をあの戦争で失わなかったものが何人いるだろう? 陽光、音楽、コーヒーの香り。メトロポリ
スの華やかな喧騒。これは弔いだ。生きてゆくことが死者への追憶であり、日々の暮らしは祈りに似ている。数
珠をまさぐるように面影を抱きしめ、聖句をつぶやくように歩みを進める。疲れた巡礼のように。
「…ホテルはウンター・デン・リンデンでしたね」
「う…うん。ピルスナーもホテルに置いてあるんだ」「楽しみです。歩きますか?」
「ああ、そうしよう」そう、ぎくしゃくとでも、痛みを堪えながらでも、歩かなければいけない。
「ホテル・デメテルというところなんだ。妻も来ている。君に会いたがってるよ」
エーリヒはその後、何度も首をひねることになる。なぜ、あの距離から、彼女の瞳が矢車草の花の色をしてい
ると分かったのだろうか、と。