カフェ・デス・ヴェンステンス、1時7分。会合に半端な時間を指定するのがダーヴィト・ラッセン中尉の癖
だった。「だってそうだろ、エーリヒ? 半端な時間の方がやっこさん達も気が緩んでいるぜ、きっと」。敵
スパイの監視をくぐるためには一理ある行動に見える。だが今ならわかる、要は天邪鬼なのだ。
この通りでは老舗のカフェであるカフェ・デス・ヴェステンスは、今ではやや古風な、気取った雰囲気の店
だと思われている。3年前インフレに耐えかねて値上げをしたのが響き、若くて生きのよい客をヴィルヘルム
教会の向かいに出来た新興の「ロマニシェス・カフェ」に取られてしまったからだ。中尉は多分その事情は知
らないのだろうが、結果的にデス・ヴェステンスの方が内密の話がしやすい雰囲気ではある。いずれにせよ、
現代風でいささか悪趣味な内装のロマニシェスでは、中尉は気に入るまい。
彼はきっと、驚くほど変わっていないだろう、どんなご時勢でも、結婚していても。それでも、エーリヒと
してはのんびり再会の懐かしさに浸っているわけにはいかない。真面目に調査を尽くした。だが、結果といえば
…なにひとつとして依頼人の疑問には答えられていないのだから。
異装の金髪の美女。レーゲンスブルクからポツダム駅へ、泊まったホテル、さらにシャルロッテンブルク、
ヴェステント病院まではなんとか足取りを辿れた。だが、3ヶ月の壁は大きく、彼女が利用したタクシーまた
は辻馬車はついに突き止めらなかった。例の気のよさそうな看護婦にこっそり頼んで病院の来訪者名簿を見て
もらったが、フォン・アーレンスマイヤの名は4月27日の欄にはなかった。ヴェレンドルフを通じて探ってみ
た、グリュンベルク邸の『アナスタシア皇女』に至ってはまさに取り付く島もない。暢気な新聞記者君でさえ
「難攻不落の要塞に篭る姫君」と形容するほどだ。「コレラ患者並みの面会謝絶体制ですね」。丸顔の青年は、
そう言って、お義理半分の憤りとプッファンクーヘンでさらに頬を膨らませたものだ。結局これだけか…手に
した紙ばさみは、悲しくなるくらい薄い…。
1時5分を過ぎたあたりで覚悟を決めた。懐かしい声が耳に飛び込んだのは、きっちりその2分後だった。「や
ぁ! エーリヒ・グリュンデナーじゃないか!」

明るい空と澄んだ陽光を楽しむため、パリ風に街路に大きなパラソルを出したカフェの屋外席、そこで背の
高い淡い金髪の男が手を振っていた。椅子の脚を軸にして体全体でこちらを向く。そんな仕草のひとつひとつ
が、ひどく都会的で粋な男なのだ。
「お待たせしましたか?」「見事に約束どおりだよ。さすがエーリヒ・グリュンデナーだ」
広げていた新聞を畳む。エーリヒに椅子を勧める。コーヒー茶碗を軽く押しやってにこっと微笑む。その全て
が流れるように自然で、優雅で、洒落ていた。
「ちゃんと収穫はあったみたいだね。さすがだ」「収穫というほどのものじゃありませんよ」
エーリヒもベルリンっ子だ。教育もあるし、専門職として尊敬も受けていた身だ。だが、中尉を前にすると、
宮廷から帰ってきた若君の前でおどおどする村の少年のような気分になる。ヴィーンの水を浴びて育ったブル
ジョワ紳士の、洗練と如才なさに圧倒されてしまう。「乾杯するかい、再会を祝して」「…コーヒーで?」
「生憎ピルスナーはホテルでね」ふざけて片目をつむった顔が、あまりにも昔どおりだった。そう、憎らしい程。
「本当に変わらないんですね、貴方は」「君は変わったよ、少しだけどね」「少し?」「ベルリンに帰ったと
聞いた時は良かったと思ったよ。映画の仕事に戻れるんだってね」
ぎくしゃくした微笑。「今時ありませんよ、そんな仕事」。苦い空気を払うように、紙ばさみを広げた。
「本当に、分かったことは少ないんです。貴方の知らないことはないんじゃないでしょうか」。エーリヒの口
調に鼻白んだように、ラッセン中尉はコーヒーカップを下ろした。

「結論から言いましょう。警察の自殺説の根拠は、2人の証人です」「2人もかい?」
報告書の上には2枚のスケッチ。中尉がニヤリとした。「さすがだ。腕は健在だね」           
               今では100年前のようにさえ思える戦前の日々。劇場に出入りしたり背景のペンキ画を描いたり、美術学校に顔
を出しいっぱしの画学生のように長髪を靡かせて歩いていた頃。演出家に重宝されていた似顔絵の腕が、諜報
員グリュンデナー少尉の唯一の財産だった。
「まずこの男、マルティン・モーザー。銀行員です。犬の散歩をしていたそうです」
「夜中だろ?」「本人の弁によると、9時前後です。シュプレー川に沿って歩いていて、橋の上に立っている
金髪の女性に気づいた。様子が深刻だったので、少し歩いて戻ってきたら声を掛けようと思っていたら、ほん
の5分後には姿を消していた。自殺者が上がったと聞いたのは、翌日仕事から帰った時。もしかしたら、とは
思ったものの、出遅れに気が引けて警察に名乗り出たのは相当に後になってからだった、というのが本人の弁
でした」「いちいち気の小さい男だね」「そんな感じでしたよ。図体が大きいのに、ぼそぼそ小さな声で話し
ていました。犬の名前はローゲ、ポメラニアンです」「性格の悪そうな名前だ」
思わずクスリと笑いが漏れた。確かに、ヴァーグナーの楽劇に登場する火の神ローゲは随分と性格が悪い。
「随分吠えてくれましたけど、あれは主人がいじめられていると思ったんでしょうね。明るい赤茶色でしたか
ら、毛色から名づけたんじゃないかな」「なるほど」
犬の話で、少し気持ちがほぐれた。中尉の術中に嵌ったな、とは思うが悪い気持ちではない。「こっちの方が
重要かも知れないな、ヘートヴィヒ・レンネマン。ルンツェナウ男爵夫人のメイドです」「美人だな」   
「そうですか? 犬のローゲより性格はきつそうでしたけどね」「犬と比べるのか」「彼女は、川に飛び込む
瞬間を見たといっています。彼女がいたのは、川沿いの1軒、退職官吏ドロッセル氏宅2階。やはり10時ごろ、
橋の上にひとりたたずむ人影に気づいて『寒くないのかしら』と思っていたら、いきなりその人影がぐらりと
体を傾げて川へと落ちていった。橋の上に他にはひとはいなかったと証言しています。あっという間の出来事
で、おかしな夢でも見たのかと思ったらしい」「ふむ」
エーリヒが言葉を継ごうとする前に、中尉の方が話しかけてきた。「コーヒーが冷めるよ、エーリヒ」