晩夏の午後、クア・フュルステンダムには第二帝国時代風の上品で重々しい雰囲気が漂っている。重厚で荘
重なカイザー・ヴィルヘルム教会は、若き日の色恋を回想する気難しい老紳士の風情だ。めっきり透明感を増
した空を見上げると、あの夜の方が空々しい作り事めいたもののように思えてくる…荒んだ温気と紫煙に色電
球が投げる妖しげな光、啜り泣きのようなとぎれとぎれの歌声、時々通り過ぎる艶も仕立てもいい夏仕立ての
夜会服と、絹の薄物から挑戦的にそびえる白い肩、「キャバレー・ヴァルプルギス」。
店を指定してきたのは相手の方だ。エーリヒがまごついていると、狐のように尖った顔の店員が無言のまま
彼をテーブルに引っ張った。そこに来て初めて、彼は店に居座る客はさほど多くないこと、彼が呼び出した男
は、本屋の店員じみた、固いカラーに蝶ネクタイ姿の線の細い中年男であることにやっと気がついたのだった。
エーリヒ以上に、エミール・フェーゲライン警部の方が店に似合っていなかった。
「お待たせしました」「ここは分かりにくかったですか? そんなに?」
皮肉げな態度が却って語っていた、彼には虚勢を張る必要があるのだ、と。
「普段こんな店に来る金はありませんよ」「私だってそうだ」こくこくと、大仰に肯いた。
「だが、午前1時の閉店を見届けなきゃならんのでね。それが法令というもんだ」
日々底が抜けていくような景気にもかかわらず、「国際都市」ベルリンの夜は華麗で、そしていかがわしかっ
た。午前1時になれば、先程のキツネ顔の店員は裕福そうな客にこう囁く筈だ。             
     「当店は閉店いたしますがお客様、お望みなら非合法の店にご案内致しましょう」
閉店規制は、いわば「非合法」に箔を付ける役回りだ。それが「彼ら」の望みなのだから。
「とはいえ、警察の夜の見回りのおかげで助かったひともいるでしょう」
エーリヒはわざとらしく煙草に火をつけた。「例の、『アナスタシア皇女』とか」
「ああ、あのひとも運河に身を投げたのでしたな、かれこれ3年ほど前」
「だが、私の依頼人の…ユリウス・フォン・アーレンスマイヤ嬢は助からなかった」
「不運なひとだ」「不運、だけでしょうか?」警部にとっては想定内の質問だろう。
「アナスタシア皇女みたいな強運の持ち主はそうはいませんよ、あの状況から生き延び、自殺を図っても助け
られ…実際には、ユリウス嬢のような不運なひとの方が多い」
…しかし「アナスタシア皇女」は本当に幸運だったのだろうか? 場違いな思いがよぎって、エーリヒはまだ
さして燃えていない煙草を灰皿に落とした。そんな場合ではないのに。 
「このご時勢、世をはかなみ、思いつめて川に身を投げる女はユリウス嬢だけじゃない。そして彼女たちの多
くは、幸か不幸か成功してしまう」意外と、警部は饒舌な男だった。
「身を投げる女ばかりではないでしょう。殺されて投げ込まれる女もいる」
「例の共産主義者の女頭目くらいでしょうよ」。惨殺されたローザ・ルクセンブルク。かつて魅力的な女性だ
ったモノは、原形をとどめない肉塊となって運河に浮かんだ。そして彼女をそんなにしたフライスコーア。ま
だ少年なのに彼らには過去は遠く、未来は覚束なく、現在は…血まみれで残虐だ。
「ユリウス嬢には姉がいたんでしたな。そのひとの依頼なんでしょ」
警部は、エーリヒの視線を外すように、オレンジ色の明かりを投げる飾り電灯を見上げた。
「バイエルンでしたな…レーゲンスブルクでしたっけ? カトリックの多い地域だ。気品のある令夫人といっ
た感じの婦人だった。きっと信心深いんでしょう。そんな婦人だから、妹が自殺したなんて金輪際認めたくな
い、ただ、それだけのことじゃあないんですか」
ラッセン中尉の指摘した扼殺未遂痕の問題がある。しかし、それを突きつけたところで、はいそうですか、と
いう訳はないだろう。
「自殺の動機があったんですか? 彼女は、今の水準から言ってそう生活に困っているわけではなかったし、
夫や子どもをなくしたとはいえ、それももう6年も前の話だ…」
大層優しそうに、警部は笑みを浮かべた。「そう、多くの遺族は、自殺の動機に気がついてやれなかった自分
をひどく責めてしまうものなんだ。あの時自分がああすれば、こうすれば、彼・彼女は助かったんじゃないか
…それを考え続けるのは…辛い作業だよ、とてもね」
目の前のコップを煽った。酒の匂いはしない。ただの水か、砂糖でも入れてあるのか。
「悪意を持つ加害者がいたのならば、遺族はそんな堂々巡りをしなくて済む。まっすぐ報復のことだけ考えて
いればいい。そう、その方が、彼らにとってずっと楽なんだ…」
歌声が温気を震わせているが、警部の低い声は意外なほどよくエーリヒに届いた。
「彼女の足取りは分かってるんですか? その途中で何かあったのかも知れない」
「それはあんたの方が知ってるんじゃないの?」こちらの動きは筒抜けだったようだ。
「ヴェステント病院でお手上げですよ。あそこの看護婦たちときたら!」
驚いたことに、警部はくっくっと楽しげな含み笑いを返した。「確かに、ね」
「緘口令を敷いたのは貴方じゃないんですか?」「してませんよ、少なくても私はね。彼女たちは秘密を楽し
んでるんだ。そうそう経験できないドラマだから」  
いや…あの年長の看護婦の硬い瞳には、そんな楽しげなものはなかった。少なくとも彼女には、何かがある。
彼女自身の意思か、誰かに強要されているのか…。ふと思い出した。アナスタシアの保護者を任じるフランツ
・グリュンベルクは、確か警視の役職にあった。彼が何かを頼めば、相手はそれを「警察の命令」と受け取る
のではないか…。
「彼女はヴェステント病院に行った。だが、そこでは求めているものは得られなかった。だから絶望した。そ
れではダメなのかい?」警部の口調はやや砕けていた。説得力があった。
「でも、何を求めて?」「それは分からない。だが、彼女の精神状態では、何がきっかけになるのか分かりよ
うがないだろ? 周りにとっては、何の意味もないことだったかも」 
どれだけの威力があるか分からないが、あの札を使うしかなさそうだ。
「しかし彼女の体には傷があった。首を絞められた跡だ。死ぬ直前、何らかの危害が加えられたことは間違い
ないでしょう? それは事件じゃないんですか?」
ふうっと大げさなため息が返ってきた。「やれやれ、例のジゴロ君は黙っていなかったのか」
「ジゴロ?!」エーリヒの血管に熱いものがさっと走った。
「家族の友人を称して、いちいちついて歩いていた将校崩れがいたね。元参謀本部の情報将校か…奴等に何か
能力があったのなら、こんなドイツになるもんか」
気楽そうな口振りが一変していた。汚いものを、払って捨てるような口調。
「だからといって…」「あの男に報告すればいい。ユリウス・フォン・アーレンスマイヤ嬢が、シュプレー川
に身を投げた瞬間を見た証人がいたんだよ、2人もね」