「このご婦人とはどういったご関係なのですか?」男爵は質問で返してきた。
「ご存知なのですね?」エーリヒは攻め立てた。
「一度お会いしたような気がします。美しい方ですね」さすがに優雅にはぐらかす。
「いつ頃、どこで会われたのか覚えておられませんか?」
「ご婦人のことを、どこの誰とも分からぬ方にぺらぺらお話しするわけにはいきませんよ」
この男、正直になるには上品すぎる。確かに育ちのいい男には違いない、と妙に感心した。
「私は、彼女の家族の代理人です」「そうだ、この方は亡くなられたのでしたね」
男爵は沈痛な表情を浮かべ、左手で額を押さえた。手袋にインクのしみがついている。
「亡くなられたことはご存知なんですね」
「ええ、そうだ。思い出しましたよ、警察の人が来たのでした。ヴェステント病院に」
警察か。彼らはどうやって、ヴェステント病院に辿り着いたのか? 少し離れた、シュプレー川で死んだ女の足
取りを、どうやってつかんだのだろう? 証人がいたのか?
「なぜヴェステント病院に?」「と、いいますと?」
「彼女は家族にも行き先を告げずに家を出た。ヴェステント病院に何の用があったんでしょうか? 入院患者、
医者、看護婦、いったい誰に会いに来たんでしょうか?」
「どうして私が知りましょう?」男爵は優雅に肩をすくめる。物慣れた仕草だ。
「ご存じなかった?」「ええ。看護婦に聞かれては? 彼女たちなら知っているでしょう」
「でも、貴方も話されたのでしょう、彼女と? 目立つひとですからね」
「おやおや、何やら美人と見ると片っ端から声をかける遊び人と思われているようですね」
妙に慣れた笑みを浮かべた。こちらを煙に巻いたものと思っているらしい。実際に、プレイボーイとして鳴らし
たこともあったのかも知れないな、とふと思う。
「…ああ、ダーリヤ・アンドレイエヴナ、お客人にコーヒーは出ないのかね?」
妙な余裕さえ出てきたようだ。「国では紅茶ばかりだったのですがね。郷に入らば、ですよ」
「だが今でもロシア人として行動しておられる」「そうですね、運命とでもいいましょうか」
男爵は、ミルクも砂糖も入れないまま右手で持ったコーヒーを啜った。
「先程の口述は聞かれてしまいましたか。随分と哀れっぽい話だと思われたでしょう?」
さすがに肯定も否定も出来かねた。「でも、あれは少なくても嘘ではないんですよ。革命で逃れてきたのは、こ
ちらに伝手のある貴族ばかりではない。彼らの縁故、雇い人たちもなんです。貴族に寄生していい思いをしてい
た、と見なされることを恐れてね。まあ、そういう側面はないでもないのかも知れませんが。それに内戦は、村
やまちの小さないがみ合いまで表に出し煽りたて、流血の惨事にしてしまう。恋のさや当てとか酒代を誰が払っ
たと言った話でも、当事者たちがどれかの軍に参加したら、とんでもない爆弾に火をつけてしまうことがある…
それが内戦なのですよ。難民保護局では、約50万人がこちらに来ていると見ています」
「だから、アナスタシア皇女は希望の星というわけですか?」
「やはりその名前が出ましたか」男爵の声にわずかな緊張…張りのようなものが響いた。
「あなたは、皇女を信じているのですね?」「少なくとも本物であってほしいと考えています」男爵の答えは速
かった。この言葉は嘘ではない、と感じさせるだけの強さがあった。
「考えている?」「私は宮廷に伺候したこともほとんどない。皇族方と親しく口を利いたこともない。ペテルス
ブルクに行ったのも数えるほどですからね」「そうなんですか?」
「私はリトアニアの出です。祖先はドイツ騎士団に従い、バルト海沿岸に入植した。北方戦役の後ロシアに臣属
するようになり、私も今回の大戦ではロシア軍に参加しました。一方、従弟はドイツ軍に入ってパレスチナで戦
死しています。私は…生き残りました」
部屋の温度が少し下がったような気がした。大戦の影は、ヨーロッパに憑いた亡霊だ。
「だから貴方は皇女の騎士になられたわけですね」「そんな大層なものではありません」
「それでも、毎日のようにヴェステント病院に行かれている。気難しい方だそうですね」
これはブラフだ。だが、男爵は綺麗に乗ってきた。「そんな、3日に1度くらいですよ」
「だから、この婦人とも話す機会があったわけだ」写真をぐいと押しやった。
「彼女は誰を訪ねてきたんですか? アナスタシア皇女じゃないんですか?」
「私には分かりかねますよ」苛ついて見せるかと思ったが、態度に変化はない。
「でも話されたんでしょう?」「挨拶程度ですよ」
男爵は両手を軽く胸の前で組んだ。ゆったりとした、いかにも貴族的な所作だ。
「帰ろうとしていたところ、門の前に立つ、このひとに気がついた。『何か御用ですか?』と聞いたら、『いい
え、もう済みました』と答えられた」「どんな様子でした?」
「ひどく青ざめて見えましたね…無表情といいますか」「怯えた様子はなかったですか?」
「怯えて…そうかもしれない…幽霊のような顔だと思いましたね…美しいひとなのに」
声色はひどく沈痛だった。少し芝居がかっているかもしれない。だが、無表情で幽霊のような、という話は、エ
ーリヒ自身が写真から受けた印象とも一致する。一方、男爵からこの話を聞いた警察が、それを自殺の前兆だと
考える可能性は高いだろう。つまり、この男は自殺説の証人か、少なくとも補完的な証人として事件に登場した
わけだ。「…遺族にはそうお伝えします」「納得していただけましたか」「決めるのは遺族です」
ダーリヤ嬢が淹れたコーヒーは、悪くない味だった。だが、冷めていた。
狭い階段を上ってきた男にぶつかりそうになり、慌てて脇に寄った。相手は礼も詫びもなく、ずんずんと上っ
てゆく。まだ幼顔を残した青年だった。ややずんぐりした体形と金髪と丸い顔が、一瞬おやっと思うほどにヴェ
レンドルフに似ていた。日の輝く夏の盛りに、軍服かあるいはそれを模した分厚な上着を着ている。襟には軍隊
の徽章に似た飾り…フライスコーア(義勇軍)。戦争しか知らない若者たちのよりどころ…そして、過激な政見
を振り回し、暴力で鬱憤を晴らす。大戦という亡霊。勉強したりくだらない騒ぎで楽しんだりする時間を奪われ
た若者たちは、その亡霊を身のうちに飼っているのだ。
さらに階段を下りて気がついた。3階には難民保護局しかない。あのドアは音が漏れる。なのに、話し声の気
配もない。フライスコーアの青年は、男爵を訪ねて来たのだ。初めてではない。ドアの欠陥を知った上で、エー
リヒに話を聞かれないようにしているのだから。