教会には香の匂いが立ち込めていた。きらびやかなトリプティーク(三面祭壇画)…ああ、カトリックの教
会だ。中央には花嫁と花婿。背の高い淡い色の髪の花婿、ややなで肩のシルエットには覚えがある。一方、ヴ
ェールにすっぽり覆われた花嫁の方は、ヴェールと白く膨らんだ衣装のせいで、ひどく姿がぼやけて見える。
背は高いのか低いのか、痩せぎすなのかずんぐり型か、髪の色さえ分からない…。ああ、これはラッセン中尉
の結婚式だ。エーリヒは呼びかけようとして口を噤む。花嫁がさっと振り向く。白い顔には何の感情もない。
これはあの女だ、既に黄泉のひとである男装の美女…いや、エーリヒを見返す瞳は夜のように黒く、熾火のよ
うに熱い。ヘレーネ。駆け出した足が空を切る。奈落へと足掻きながら…目が覚めた。
7年が経つ。もはや思い出すこともまれになっていた筈だ。エーリヒは伸びをして、殊更に明るい声を出し
た。「今日も仕事があるじゃないか」
そうだ、仕事があるのはありがたい話だ。フランス軍のルール占領、政府公認のストライキ。活気のあった
工場には使われない原料が積みあがり、クルト叔父の肩が落ち、猫背がさらに丸く、細くなる。甥の後を追う
ように、工場を畳みドルトレヒトを去ったというが、連絡は途絶えたままだ。
母の淹れたコーヒーの匂いが漂っている。機嫌はいいらしい。ドル札は親子仲の修復にも効果があるようだ。
そう、まず現場だ。手紙に添えられてあった彼女の死亡証明書の写しを頼りに、エーリヒはシュプレー川沿
いへ歩みを進めた。戦後ベルリン市に編入されたシャルロッテンブルク地区は、優美な宮殿と賑やかなクア・
フュルステンダム(諸侯の参宮道)を擁する一方、世紀転換期から急速に発展した大小さまざまの住宅地がひ
しめく地区である。新旧両市街をつなぐシュプレー川では、盛りの輝く緑の上からシャルロッテンブルク宮殿
の丸屋根が覗き、今は夏の光をたっぷりと含んだ青空が澄んだ色を見せている。彼女が死んだのは月の差さな
い暗い夜だったのだろうか? それとも星々が冷たい顔で見下ろしていたのだろうか? 彼女はなぜここまで
来たのだろう? ヴェステント病院を出て、何を思いながらところどころ灯りのもれる家々を過ぎ、こんな場
所まで歩いたのだろう? 写真の彼女の彫刻めいた顔が、初めて何かを訴えてくる気がした。
橋は高く、水面はやや遠いところでのんきな煌きを見せている。彼女は石のようにまっすぐ落下したのだろ
うか? それとも金髪をふわりと空に広げて、ゆったりと舞うように落ちたのだろうか? もう一度辺りを見
回す。宮殿の庭に続く木々や街路樹は気持ちのいい木陰を作っているが、犯罪行為が行われた場合、視線を遮
る障害になろう。だが、新興地区の街路樹はまだ若く背も枝の広がりも控えめで、興味を持って眺める者にと
っては、決して都会の死角ではない。「目撃者はいるはずだ」エーリヒは小声でつぶやいた。彼女の華やかな
容姿も、人目を引き記憶に残るだろう。
いったい彼女は、何を考え、何から離れようとしてこの道を…いわば暗いほうへ暗いほうへと辿ったのだろ
う。現場からヴェステント病院への道は、あの夜彼女が通った道を逆に辿っているのかもしれないし、そうで
ないかもしれない。辻毎に彼女の写真を見せてみたが、必ずしもはかばかしい答えは返って来ない。「ああ、
見たことがある気がする」程度の反応は多いのだが、さすがに3ヶ月の壁は高かった。ただ、収穫らしいもの
があるとすれば、「見た気がする」と答えた者の多くが「彼女は急いでいた」と語ったことだろう。彼女は急
いでいた、何故? ヴェステント病院で行き先を聞いて、グリュンベルクの別宅にいる『アナスタシア皇女』
のところに行くとしたら、むしろタクシーでも拾うのではないか? 唯一人、ベルリンの街を走り抜けようと
した彼女…怯えていたのか? 何に?
「アナスタシア皇女はこちらにはおられません」。怯えといえば、ヴェステント病院の看護婦たちは、その
怯え方まで堂に入っていた。そんなややこしい話私御免ですわ、そんな本音を計算づくで仄めかしている。
「いえ、皇女ではないんです。この女性をご存知ではありませんか? ご家族の依頼で…」「あら、綺麗なひと」
若い方の看護婦の丸い瞳に、興味がちらりとよぎった。
「3ヶ月ほど前の話なんですが」「残念だわ、その頃私こちらにはいなかったのよ」
「その方は亡くなったと聞きましたよ」年長の看護婦の表情は、硬さを増している。
「亡くなった? いつ? どこで?」「警察の人が聞きに来られました。話はそちらで」
…確かにこの病院は、どこかで彼女とつながっている。『皇女』のためか? それとも?
「分かりました。それと…」「それと?」「ロシア難民保護局はどちらですか?」
さあ。エーリヒは、ネクタイの結び目を締め上着の前ボタンを掛けた。オステン=ザッケン男爵。今のとこ
ろ彼に与えられた最大の手がかりだ。
ロシア難民保護局は、いじましく小奇麗に整えられた地区内の質屋の3階にあった。階段を上がると、おそ
らくドアの立て付けがよくないのだろう、中の話し声が気恥ずかしいほどはっきりと聞こえてくる。
「…かつて世界の最上の宮廷、閣下も浅からぬ縁をつながれたあの華麗な宮廷に育ったか弱く嫋やかな婦人たち、
まさに閣下の姉妹とも呼ぶべき方々が、今ベルリンの陋巷で明日をも知れぬ暮らしに呻吟しておられる、この
ような不条理を閣下のごとく寛大並びなく鳩のように心優しい貴婦人がよもやお許しはなさいますまいと、我
々一同衷心より信じ信頼をお寄せしておりますことを…」ややフランス訛りのある、音楽的とも呼びたいドイ
ツ語が柔らかな響きで流暢に流れている。「お客人、どうかお入りを」その声が呼んだ。
「失礼致しました。専ら王侯貴族の、特にご婦人方にひたすら援助を乞い願うのが我々の仕事でしてね。何
はともあれ先立つものが何もない。また、助けられるほうも金など財布の底から湧いて出ると思って育った方
々だから、援助のし甲斐のないことと言ったら…ああ、ダーリヤ・アンドレイエヴナ、口述はしばらく休むこ
とにしよう」幅の広い顔をした、疲れた様子の娘が、便箋を揃え、一礼して退席した。
オステン=ザッケン男爵は、まずは上品な雰囲気の男といえた。中背で手足もすんなりし、声にも、荒い言葉
を使う必要もなく暮らしてきた者らしい優雅な響きがあった。巻き毛をきりりとひねり上げた口鬚を生やして
いるが、それが彼を妙に惰弱に見せている。財布に残った最後のぺニッヒ貨で、この男はパンではなく鬚を整
える香水入りポマードを買うに違いない。
「ヴァシーリ・オステン=ザッケン男爵ですね」「そういう貴方は? 初めてお会いしますが」
「エーリヒ・グリュンデナーといいます。この婦人のことでうかがいました」
角のあちこちが凹んでいるマホガニーの机に、あの写真を置いた。写真の女が、わずかに身じろぎした気がした。