「ベルリナー・ルフト」紙の編集局は、ティアガルテン区の閑静な一角にあった。美術館が立ち並ぶムゼウ
ムス・インゼルにも程近く、どうやら元々は文芸紙として出発した新聞らしい。重厚な建物は第二帝国時代の
ものなのだろう、どこか世を拗ねた老紳士を思わせる。
一方、ヴェレンドルフ記者本人の方は対照的に気の毒なくらい若く、色の白い頬にいっそニキビか雀斑が似合
いそうな青年だった。あまりに人懐っこく近づいてくるので、エーリヒの方がたじろいだ程である。
「あの記事を読んでいただいて嬉しいですよ。編集長は渋い顔してましたからね」
「いや…スキャンダラスな話を、よく温かみのある結論に落ち着けたものだと思うよ」
若い記者のニコニコ顔に、思わずエーリヒの方が保護者めいた口調になってしまう。
「タブロイド紙みたいなこと書くんじゃない、って言われちゃったんですよ実は。でもね、僕だって教会の救
貧バザーの記事ばかりじゃ悲しくなりますよ、いくらコネ入社でも」
開けっぴろげすぎて、聞き出す側のこちらが何やら心配になるくらいだ。幸先は悪くない…そう考ようとする
そばから、若者の危なっかしさに不安が募ってくる。
「編集長は、政治的な記事をバンバン打つのは反対なんです。もともと穏健自由主義路線ですからね。今は…
右も左も極端をよしとしている、だからこそ穏健であること、生活する者や社会の包容力を信じることを地道
に訴えることこそ価値がある…とか言っちゃって。でもねぇ、僕はねぇ、外務大臣暗殺の日にグリューネヴァ
ルトにいたんですよ…」彼もまた、実行犯たちと同世代だ。それが複雑な感情を呼んでいるらしい。もっとも、
話す間にも若い食欲は、3杯目のコーヒーと4個目のプッファンクーヘン(ジャム入りドーナツ)の制圧にかか
っていた。今一度、ラッセン中尉のドル札に感謝する。
「アナスタシア皇女を取り上げたのはどうしてだい?」
「だって、あれだけの騒ぎになっているのに無視するほうがどうかしてる。それに、彼女は容易に君主制復活
論者の旗印になるでしょう、本人の意図はともかくとしてね」
ロシアの姫君がドイツの政治に影響力を持てるものだろうか? そう聞きかけてエーリヒは思い出した。アナ
スタシア皇女は、君主制復活を目論んでいるとされているドイツ諸侯と縁戚関係にある。彼女の受難の物語は
一定の訴求力をもつだろう。ただ、ここで政治論議に巻き込まれるのは、エーリヒとしては避けたいところだ。
「これを見てくれないかな?」中尉が送ってきた写真をテーブルに置く。
「この女性に見覚えはない?」ヴェレンドルフ記者の反応は、今回も分かりやすかった。
「ああ、見たことありますよ。アナスタシア皇女を訪ねてきたひとでしょう」
「確かなのかね?」「ええ、よく覚えてますよ、あ、プッフェンクーヘンもう1個」
ヴェレンドルフには、屈託というものがない。
「いつ頃の話だい?」「ええと、ポイテルトさんと連絡がついたころだから、4月の末?」
話は合っている。「会ったんだね? どこで?」「ヴェステント病院の近くですよ」
ヴェステント病院は、シャルロッテンブルクにある。「皇女」は胸骨結核を病んでいた。
「だって、忘れようがないじゃありませんか。そうそうお目にかかれないすごい美人、しかも男装ですよ。死
んだと思われていた皇女と男装の麗人。まるでデュマの小説みたいだ」
元気よく、クーヘンをコーヒーで流し込む。「正直ワクワクしましたね」
「結局2人は会えたんだろうか?」「それはないと思いますよ」
ヴェレンドルフは目をクリクリさせた。「会ったんならぜひ取材させて欲しかったですけどね。でも『皇女』
は、その少し前から、知人のグリュンベルク氏のところに行ってたんです、後で分かったんですが。ドラマテ
ィックな記事になったと思うのにな」
グリュンベルク氏。エーリヒは心の中でメモを取った。フランツ・グリュンベルクは歴史研究を趣味とする資
産家だが、警察に籍を置いていた。極右組織の支持者として有名だ。
「この女性だが…皇女周辺の誰かと知り合いのようだったのかい?」
「うーん、僕には分かりません。『アナスタシア皇女が入院しているのはここですか?』って聞かれただけだ
から。もっともオステン=ザッケン男爵は何か知っているかも。彼女の後を追っかけていったんですよ、慌てて」
「オステン=ザッケン男爵?」
「ロシア難民保護局のヴァシーリ・オステン=ザッケン男爵です」
彼女は何を求めて、アナスタシア皇女を訪れたのだろうか? 中尉の手紙をもう一度読みながら考えて、エー
リヒはふと疑問に囚われた。彼女の夫は、レーニンを支持したボリシェヴィキの闘士だったという。そんな女
性が皇女に何の用があったのだろう? 相手はいわば、夫を殺した仇の娘だ。更に吟味してみる。彼女は、「亡
命ロシア貴族の令嬢」と一緒に帰国したとある。その令嬢は、彼女とどういう関係があったのだろう? 貴族
を敵としていた共産主義者の妻と? 無論、クロポトキン公爵を例に出すまでもなく、革命派に同調していた
貴族は少なくないのだが。ただ…エーリヒは浮かんできた想像に身震いした。畜生、諜報員くずれの悪い癖だ。
しかし、彼女が、もしも皇帝派のスパイだったとしたら…。写真を見た。美しい顔は何も語ろうとしない。ふ
と憎らしく思えるくらいに、人間的な何かが欠落した顔。だが、ラッセン中尉はこの女性を愛していたのだ、
確かに…。
そう、今手紙を読み返してみて、一番強く感じたのはそのことだった。記憶と、感情を失うに至らせた彼女
の過去の何か。川で冷たくなっていた彼女、恐らくは非業の死。軽い調子のようで、確かにラッセン中尉は彼
女をそこに追い込んだ何かに憤っていた。中尉が知っていた頃の彼女は美しいだけでなく、きっと生き生きと
した感情と伸びやかな表情を備えていたのだろう。この写真に写っていない彼女。男装・男名前を通していた
という事実は複雑な背景や事情を思わせるが、それを撥ねのける意志を持っていたはずだ。そう、17歳でロシ
アまで恋人を追っていった娘だったのだ。若い…中尉は確か、エーリヒより5歳下のはずだ…やっと少年の域を
脱したくらいのダーヴィト・ラッセンは、眩しげに彼女を眺めていたのではないだろうか…。
「彼は結婚した」。グスタフ・ザハリッヒの手紙の一節が、またもや浮かんだ。