ダーヴィト・ラッセン――ラッセン中尉からの依頼でなければ、動かなかっただろう。そして自分はどうなっ
たのだろう? 鬱々と、ミッテ地区の片隅、母が営む下宿屋の地下室に閉じこもったまま?
暗い長い道をひとりとぼとぼ歩くように思えた夏。1919年に復員し、間もなく叔父に呼ばれてドルトムントに
行き技師として働いた。三十男の身で戦場に赴いて以来、久しぶりの地に足の付いた暮らし。生活は楽ではない
が、ともかく戦争は終わったという高揚感があった。だが、4年後、エーリヒはドイツ全土に溢れる500万人の失
業者の一人だった。
届いたドル札――気配りのいいラッセン中尉は、小額紙幣をたくさん入れていた――と、彼を西部戦線から救
い出した中尉への義理立て。どちらが大きかったか考えると苦笑するほかない。だが、とりあえず、地下室から
這い出す気になったことは確かだし、結局それが一番大事なのではないか?
「どこに行く気だい、エーリヒ?」母の声はいつも眠そうだ。
「仕事さ」「…嘘だろう。ふん」反論する気はとうに失せていた。
いきなりベルリン警察に行く愚は避けた。奥歯に物の挟まったような手紙の文言を反芻したくもあった。いく
ら遺族の名前を出したところで、今の自分では、そのフォーゲルだかフェーゲルラインだかいう警部にいいよう
に扱われるだけだろう。あるいは、多忙を理由に体よく追っ払われるか。まずドルをいくらか両替した。軍資金
なしで何ができる?
エーリヒの調査能力。ラッセン中尉が、どうしてそんなことを言ったのか未だに謎だ。書類仕事こそ大嫌いだ
ったが、ひとの信頼を得て話を聞きだすのは中尉こそ信じられないくらい上手かった。ビアリッツでも、ジュネ
ーヴでも。押し付けがましくない優雅な物腰や響きのいい声。稀に見せる剽軽な表情に、ひとの胸襟を簡単に開
く力があった。どんな時にも品があった。これは決してたやすいことではない。
中尉の器用さがないエーリヒがまず行ったのは、結局図書館だった。生き残りのロシア皇女。予備知識のとっ
かかりとしては、それくらいしか考えられなかった。どうかするとポケットからはみ出してくる大量のマルク札
を贅沢にも持て余しながら古新聞を繰るうちに、話のとりとめのなさに眩暈さえしてきた。確かに現代の話に違
いないのにおとぎ話めいて、オペラさながらの道具立てなのに、彼も知っている戦場の血の臭いが漂っている。
あの写真の中の美女が薄く嗤った気がした。
彼女を「見つけた」のは、クララ・ポイテルトという女性だった。1922年1月、ベルリンのダルドルフ精神病院
から彼女は、デンマークに亡命していたロシア皇太后と、ロシア皇后の姉に当たる公妃に手紙を書き、「精神病
院に、ロシア皇帝一家の処刑を生き延びた皇女がいる」と知らせたのだ。亡命ロシア人たちは驚いた。皇女を名
乗る女性は、帝政支持者に引き取られ、宮廷出入りの貴族女性、皇后の元侍女、血縁の公妃などなどが彼女を訪
ねたものの、甲論乙駁の有様だった。その女性…アンナという仮名を使っていたが、実は「ロシア皇帝ニコライ
2世の四女アナスタシア・ニコラエヴナ大公女」だと本人は主張し、支持者や支援者も信じていた…は、1920年
ベルリンの運河に身を投げたところを助けられ、ほとんど口も利かず身元の確認がとれないため「フロイライン
・ウンベカント(無名嬢)」としてダルドルフ精神病院に送られたという。謎めいた来歴とどこか気品の感じら
れる風貌が、彼女を看護婦詰所の噂の的にした。彼女の沈黙は、支持者には「処刑のショックとその後の労苦に
よる記憶の混乱」と受け止められたが、「情報収集のための時間稼ぎ」と見るものもあった。精神病院退院後、
支持者宅を転々としていたが、時に彼らと衝突し、飛び出しては貧窮し、それがまたニュースにもなった。これ
も「皇女の誇りの表れ」と取るものも、「疑われないための雲隠れ」と呼ぶものもあったが…。
彼女の動静を伝える新聞の多くは、旧貴族社会のつれづれを面白おかしく取り上げるタブロイド新聞、そうで
なければ右翼や帝政復活論者の刊行物だった。タブロイド紙の署名はいい加減だし、怪しげな政治グループに関
わり合うのは最後の手段にしておきたい。「虚心に当たる」のも依頼のうちだ。質の悪い印刷インクで指を黒く
しながら新聞綴りをひっくり返すうちに、比較的まともに取り合ってもらえそうな名前を見つけた。「…この女
性がエカテリンブルクの惨劇の生き残りなのかどうかは、すぐには結論の出ない問題だろう。だが、確かにいえ
るのは、彼女は我々の時代を襲った恐ろしい災厄の犠牲者のひとりであり、深い傷と病を得ながらもあの戦争を
辛くも生き延びたという点で、まさしく我々の姉妹であり、だからこそ我々の社会は彼女の安住の地とならねば
ならぬということではないか。(署名:クリストフ・M・ヴェレンドルフ)」。掲載紙の「ベルリナー・ルフト」
は地域ニュース中心の穏健な隔週紙だ。幸先は悪くない、とエーリヒは思った。
図書館は蒸し暑かった。年老いた館員が、窓を閉め、行儀の悪い来訪者が取り散らかした本を片付けて閉館の
用意をしている。何となく図書室で教師に出くわした放課後の少年のような気分になって、きちんと積み重ねた
新聞の束をゆがんでもいないのに整えていると、調べ物に没頭している間は頭の奥に押しやっていたものが、た
ちの悪い妖精のようにひょっこり顔を出してくる。
中尉は、エーリヒのことをグスタフ・ザハリッヒから聞いたと書いていた。多分その時の話なのだろう。グス
タフはエーリヒにも手紙を書いてきたのだ。「ラッセン中尉は今、レーゲンスブルクに住んでいるそうだ。結構
な羽振りだった。どこまでも運がいい人だね」。皮肉屋のグスタフ。西部戦線で毒ガスを吸い込んで肺をやられ、
しじゅう汽笛のような物悲しい喘ぎ声を出していた。「彼は結婚した。相手はバイエルン貴族の跡取り娘で、10
歳以上も年上らしい」。育ちのよさをうかがわせる挙措。時々見せるやんちゃな笑顔。印象に残るほどではない
が端正な顔立ち。プロはだしのチェロの腕前。そしてドル紙幣の束。「戦時経験を活用したというべきかな。実
際の話、中尉は上手くやったってことさ」
「こんなご時勢だ」。エーリヒの声は自分で思ったより大きかったらしく、館員の白髪頭がくるりとこちらを向
いた。