「気が付かれたかも知れませんよ」「うん、多分ね」                         
ついさっきかけた電話の場所が分からないというのは、あまりに下手な嘘だった。             
「フライスコーアはともかく、男爵のところにはいつか案内しないわけにはいかないでしょう。事件のせいで、
あのひとは却って意固地になっている。手ぶらでベルリンを離れる気なんかなさそうだ」「分かってる」
元中尉は、ポツダム広場の方に目をやったままだ。
「君、銃は持ってきたんだろうね?」「ええ」内ポケットのルガーP08。ふとひやりとしたものが脳裏を走る。
ドイツ軍用に大量生産され今も多くの男たちの手元にあるこの同じ銃が、もしかしてクリストフの命を奪ったの
かもしれない…。
「…心当たりあるんですか?」「え?」
「ヴェレンドルフ殺しですよ。あのひとにしても…。なぜ、あのひとはあんなに反応したんです? 犯人…少な
くても殺された理由を知ってるんですか、あなた方は?」
「そんなに色々知ってるならここまで来やしない、彼女は…」握りしめた手に力が入った。
「僕には教えない気なんですか? あなたの義妹…ユリウス・フォン・アーレンスマイヤというひとは、いった
い何者だったんですか?」

 苦闘と言っても恥ずかしくない歳月だったと思う。家族と呼べるもののない家、傾きかけた家産、令嬢の嗜み
ごとしか身に着けていない女がただ一人でそれを支えようとしたのだから。ベルリンとレーゲンスブルクを往復
し政治に没頭した父がほったらかしにしていたさまざまな事業を洗い出し、整理した。バイエルン各地に散って
いた不動産をあるいは売り、あるいは資本導入を行って採算の取れる物件にまとめ上げた。見たこともなかった
帳簿を夜を徹して調べ上げ、あちこちの銀行を駆けずり回り、小作人たちとも膝詰めで話し合って、気が付くと
彼らから「Dame(奥方様)」と呼ばれていた。銀行の支配人たちからも、通り一遍でない敬意で遇されるように
もなった。自分の手で呪いを撥ね返した…そう誇ったことさえあったのだ。今思えば、アーレンスマイヤ家の呪
いが、それよりもっと大きな…ヨーロッパを覆った呪いに取って代わったのかも知れなかった…。

 「ロシア難民保護局ですか? オステン=ザッケン男爵とお話ししたいのですが、おられますか? エーリヒ
・グリュンデナーと申します。アーレンスマイヤ嬢の件とお伝えください」

   「奇遇ですな。フラウ・アーレンスマイヤ…でしたね?」
はっと上げた目に映ったのは、豪奢な印象のレストランには不似合いな、貧相とさえいえそうな小柄な男だった。
「ベルリンにはいつおいでになったのですか?」
帝国貴婦人流の氷のような眼差しで応じようとして、気が付いた。ベルリン首都警察の男。
「お久しぶりですわね、フェーゲライン警部」マリア=バルバラはきっと顔を上げた。
「今は、アーレンスマイヤ・ラッセン夫人ですわ」

 「こちらからお伺いしますよ、そういうことでしたら。ご存知でしょう、うちの事務所はご婦人をお迎えでき
るような場所とはいえませんから」男爵の声はむしろ陽気とさえいえた。「お迎えしていないんですか?」
「お迎えすると言いますか、まぁ哀れっぽく見せたいときにはお運び願うこともありますが。でもそういう話で
はないんでしょう?」「ええ、お芝居はなしでお願いしますよ」
「Ich verstehe(分かりました)」力を入れる時、男爵のドイツ語は子音が目立ってどこかとげとげしく聞こえた。
「まずラッセン夫人のご都合をお伺いしましょう。ご婦人優先ということで」
「折り返し電話して…あ、ラッセン氏に電話を替わります。いいですか?」「喜んで」
受話器を渡した途端、夫人と話している男の姿が目に入る。ビール瓶を思わせる幅の狭い撫で肩とひょろりとし
た首…。思わず、足音が荒くなった。
「ご無沙汰していますね、フェーゲライン警部。こちらにお見えになるとは意外でしたよ」
「高級店ですからね。随分羽振りがよろしいようだ」
「警部がお見えになるとは、この店には何か不正があるのですか(給仕が嫌な顔をした)?大変なお仕事ですね」
「貴方こそ大変でしょう。あの雲をつかむような話を、今でも追っておられるのなら」
「雲をつかむような話ではありませんわ。ヘル・グリュンデナーがたくさん調べて下さいましたから」
このひととしては、いささか無礼な態度で、夫人が割って入った。
「そちら様にはもう済んだ事件でも、わたくし共にとっては過去にできるものではありませんの。妹のことを調
べてくださった方とここでお会いできたのも不思議な偶然ですわね」さすがの警部がわずかに表情を強張らせた。
「…ええ、確かに大した偶然の一致ですな」
偶然であるわけはない。だが、これが偶然ではないとしたら、クリストフのことはどうなるのだろう…。
「警察の捜査だけでは、割り切れないものもあるんですのよ。わたくしの気持ちの済むようにさせていただいて、
何かご迷惑になりますの?」夫人の言葉は手厳しい。
「ですから、偶然の一致ですよ。奇遇というやつ。世の中にはたまにあるんです」
警部も態勢を立て直した。「妹さんの件でベルリンにお越しになったとは知らなかったですよ。でもね、正直な
ところ、そう伺ってあまり愉快な気持ちにはなれませんね。このご時世ですが、我々なりに手は尽くしたんです
から。失礼ながら、絶対我々の結論には同意しない、そう決意しておられるようにお見受けしますね」
「いけませんの?」「いけないとはいいませんよ、お気の済むように。でも初めに結論ありきで動き回って、そ
んなことに実りがあるとは思えませんね。とんだ藪蛇になることだって…」
「マリア=バルバラ」ラッセン中尉だった。「男爵はこれからホテルに来てくれるそうだ」
フェーゲライン警部は、むしろ悲しげな笑みを浮かべた。「ご結婚されたんですね。お祝いを言わないと」
「千里眼だね、警部殿」「さあ、貴方たちのなさっていることの結果が、私に分かればいいのですが」
中尉は妻の傍に寄り、テーブルの上の手をそっと握った。