ラッセン中尉が勘定を済ませに行くと、夫人は小さな紙片をエーリヒの方に押しやった。
「この方と連絡がつくか、調べていただきたいの」「これは?」
夫人は視線をさまよわせた。ティアガルテン方面に向かう撫で肩の後姿を見つけた時、一瞬それが険しくな
ったと思ったのは気のせいだったか? 「父の知り合いだった方です」すっと目を伏せる。
「もしかしたら、何か教えていただけるかも知れないと思って」
「お待たせ。レストランがタクシーを回してくれるそうだ」夫の声に、優雅な微笑が戻る。先ほどの不安げ
な表情が嘘のようだ。心強く感じているからか、それとも…?
紙片には、ベルリン市内、グリューネヴァルトの住所と、男の名が記されていた。
「お目にかかれて光栄です、ラッセン夫人」オステン=ザッケン男爵は、まさに本領発揮というところで
ある。優雅に深々と腰を折り、慇懃に夫人の手指に口づけする。10年ほど前にはヨーロッパ各所に存在し、
今では失われてしまった宮廷の流儀そのものだ。
「もっと早くにお目にかかれたらよかったのに、と思いますわ、男爵」
「嬉しいお言葉です、奥さま」夫人は苦笑した。「妹のことをご存じでいらしたとか」
すかさず中尉が椅子を引き、妻を促した。男爵も当然のように向かいの椅子に腰を掛ける。魔法のように給
仕が現れ、優美なグラスに入った爽やかなレモネードを並べた。
「一度お見かけした。わずかに言葉を交わした。それだけです。もっとお話ししていればよかった。そうす
れば、あんなことにはならなかったのかもしれない」
「お優しいお言葉ですわね、男爵」しかし彼女は相手のペースに乗せられてはいなかった。
「いったい貴方との話で、あの娘が自殺するようなことがあったのでしょうか?」
わずかに男爵の表情が動いた。グラスをテーブルに置くと、不作法ともいえる音が響く。
「失礼」「『もう済みました』。妹はそう言ったそうですね。何のことか、お心当たりは?」
「さぁ…」「妹はアナスタシア皇女に会おうとして会えなかった。そんな時に『済みました』というもので
しょうか? 時を改めてまた会おうとするのではないでしょうか?」
「分かりません、妹さんのような方のご心境は…」「貴方、本当に妹と話をされたの?」
かすかな激高が、夫人の白い頬に走った。「『妹さんのような方』とおっしゃいましたわね。ええ、妹は普
通ではありませんでした。ロシアであの娘に何があったのか、私には知りようがなかった。記憶が混乱して、
どこからどこまでが失われたのかさえ、私には分かりませんでしたわ。それでも、私はこの7年間あの娘と暮
らしてきたのですよ。確かにここのところのあの娘の様子は…」
「マリアさん」夫が彼女の肩に手を添えた。彼女は止めない。「ええ、普通ではなかった。でも、そんなあ
の娘が、ただ一人でレーゲンスブルクからベルリンまで来たのですよ。短い旅ではありません。思い切った
…強い意志で決めた行動のはずですわ。そんな…あっさりと…」「マリアさん」だが言葉は迸り続けた。
「わたくし、妹が死ぬためにベルリンに来たとは到底思えませんの」
「妻が失礼しました」ラッセン中尉が、落ち着いた声音で口を挟んだ。そんな声を出すと、このひとはい
つも年齢不詳の落ち着きと重みを漂わせる。
「いいえ…仲の良いご姉妹だったのですね」夫人が何か呟いたが、誰にも聞こえなかった。
「実際どうなんです? ユリウス…義妹は大きな衝撃を受けたようでしたか? それとも何か諦めたような
様子だったとか?」男爵が取り上げようとしたグラスがカチンと鳴った。
「さぁ私には何とも…」「でも、わざわざ追ってゆかれるくらいですから、妙だと思われたのではないので
すか?」「え?」グラスが今一度、耳障りな音を立てた。
「見ていた人がいるんですよ。それに貴方、ロシア語で彼女を呼び止めたそうですね。アナスタシア皇女の
関係者だと思われたんでしょう、違いますか?」エーリヒは、不自然でない程度に中尉に視線を送った。ブ
ラフ。ヴェレンドルフはそこまで言っていない。
「どうかすると出てくるんですよ、母国語ですからね」
「相手はドイツ人の可能性の方が高いでしょうに」夫人の瞳が鋭い。矢車菊は強い花だ。
「呼び止めるのに、相手に分からない言葉は使わない。貴方は、ロシア語が通じる相手に特に神経質になる
理由があったんでしょう?」中尉の声はひどく柔らかく優しかった。
「貴方は姫君を守る騎士だから。そうでしょう?」
「あなた方にお話ししても…いや、あなた方だからこそ分かるのかも知れませんね。フロイライン・ユリ
ウスもやはり心を病んだ方だったということですし。アナスタシア皇女はダルドルフ精神病院にいた。ご存
知でしょう、ああいった場所は、所詮家族や周りの人々に疎まれ邪魔にされた人たちの流れ着く場所だと…
フロイト博士の学説を学んだ人はまだほんの一握りだ。自分を過小評価する癖がついた…自分の主張が受け
入れられないことに慣れ、己であることに倦んだ人たちに、彼女は囲まれていたのですよ。今まで彼女を首
実検し、そして否定した人の中には、親しく身近だったはずのひとも含まれている。自己否定が癖になりか
けた若い女性が、そういった仕打ちを受けたらどうなるとおもいます? 今の彼女は、普通の状態ならちゃ
んとした若い貴婦人だ。美人で上品でウィットもある。だからこそ…不安定になった時の取り乱しようは目
も当てられない無残さなんですよ(何か思い出したのか、ラッセン夫人が子供のいやいやのような仕草をし
た)。ええ…私自身耐えがたいと思うことさえある。そんな様子を見たら、今彼女を信じ支持しているひと
たちだって平静でいられないでしょう。こんな女が皇女のはずがない、目の前にいるひとのそんな感情を見
て取れば、彼女はますます荒れる。悪循環です。私が神経質になる理由がお分かりになりますか? とりあ
えず、彼女に対して否定的なことを言いそうな人間は遠ざけておきたくもなる。とりわけロシア、ことに宮
廷関係に通じていそうな人間はね。彼女を守らなければならない。彼女が必要なんです…私たち、流浪の民
には…」
饒舌な男だと思っていたが、真剣な表情の男爵はむしろゆっくりと、一言一言を選ぶように話していた。芝
居がかった様子も影を潜めている。
「それで貴方は彼女を追って行かれた。アナスタシア皇女の関係者、特に皇女に疑問をさしはさむような人
物かどうか見定めたいと思って。ロシア語で話しかけることで、いわば訪問者をテストしたわけだ」
男爵は丁寧にグラスをテーブルに置いた。手袋を着けた優雅な印象と裏腹に、結構不器用な男らしい。
「分かっていただけたようですね」
だが、いささか神経過敏ではないか? 見方を変えれば、アナスタシア皇女を疑う者は近づけないというこ
とではないのか? 議論以前に、「皇女が必要だから本物でなければならない」と主張しているようにも感
じられる…政治的な理由なのか?
「で、実際には何を話されたのです、男爵?」男爵は束の間目を閉じ、降参というように右手を挙げた。
「すっかり誘導されてしまったようですな」だが、不快感は見せていない。
「あまり正直ではなかったですね。宮廷出入りの人間でアナスタシア皇女の支持者だと話した」
薄い笑いが浮かぶ。「革命前にはお会いしたこともないのにね」
「それも必要なことでしょう。相手に情報通だと思わせるためには」中尉の声は優しい。
「皇女は今ここにはおられないといいました。そして警告を…」「警告?」
「ボリシェヴィキの追手には気をつけろと」