「28日午後11時過ぎ、ベルリン市警察に『クーア・フュルステンダム裏手の路地から銃声が聞こえた』という
通報があった。警察官が急行し、ウーラント通り**のキャバレー『ルイスヒェン』の前で、腹から血を流し
倒れている若い男性を発見した。
持参品などから、被害者は『ベルリナー・ルフト』紙記者クリストフ・M・ヴェレンドルフ氏(23)と判明。
氏はアレクサンダー病院へと搬送されたが重体。この地域はクラブや風俗店が多く非合法の賭博が行われてい
るという情報もあり、ベルリン市警察がリンクフェライン(犯罪組織)との関連を捜査していた。警察では、
氏が取材中にこうした非合法活動に巻き込まれたものとみている」
給仕に頼み、新聞を集め、何とか事件の概略をすくい上げてみた。
「珍しい事件じゃない、そうだろう?」ラッセン中尉の頬がこわばっている。エーリヒはちらりと夫人の方を
見て、中尉にうなずき返した。「残念ながら、そうですね」
実際ベルリン市警察は、帝政の崩壊とほぼ同時に再編され15000人を擁する大組織となってはいたが、この手の
事件を抑えきれないでいることも確かだった。政治的騒擾、経済破綻に伴う社会不安、一方で流れ込む非合法
なものも含めた大量の外貨。リンクフェラインだけがわが世の春を謳歌していた。いや、いっそ警察は彼らと
共存し、裏社会の治安を委ねているのだ、そんな噂も根強くあったのである。
「いや、恐ろしい街だね」中尉は軽く肩をすくめた。彼らしくないほどの軽薄さである。
「…ヴィーゲラー編集長に会ってみますか? 彼の個人的なことにも詳しいようだ」
「…うーん、僕らが行っていいものだろうか?」夫人は押し黙ったままだ。
問題なのはこのタイミングだ。ラッセン夫妻のベルリン到着直後。だが、それ以外の点では、ヴェレンドルフ
とかれらを結ぶものは何もない。面識さえないのである。
「すっかり怯えさせてしまったようですね。大丈夫ですか?」
声をかけて初めて、エーリヒは夫人が指を添えたコーヒーカップが、受け皿の上でカチャカチャ、カチャカチ
ャ、と小刻みに震えていることに気が付いた。
「アーレンスマイヤ家は呪われている」。いっそ、そう考えていられたら良かったのだ。彼女はその考えに
は慣れてしまっていたのだから。父の再婚から妹たちの出奔に至る2年間。その時には彼女自身、恋を失い、嫉
妬に悶え、時には命の危険を感じたことさえあった。だがその後、古い屋敷に取り残されて歳月を重ねた時、
あの2年間は彼女にとってかけがえのない何ものかになっていた。最初のうち、それは「あの事件の後なら怖い
ものはない」と己を奮い立たせる記憶だった。呪われた家門だという陰口さえも、彼女をより誇りかにしてい
たのだ。しかし、どうしてなのか、あの日々を思い出すたびに、甘いやるせなさが胸を浸すようになったのは?
そう、あれは彼女の青春だったのだと。
「ともかく一度ホテルに帰った方がいいかもしれないね。ひどい顔色だよ」
夫の声がどこか遠くから聞こえた気がした。茶碗がカチャカチャ鳴る。それはやがて、まだ新しい記憶の中の
あの言葉に重なってくる。今は彼女の夫になった男のあの問い。
「本当のスパイは父上の方だったんじゃないかな…」
「いいえ、私なら大丈夫」彼女は、頭をぐいと上げた。うんと高慢ちきに見えたらいいわ。
「ヘル・ヴェレンドルフにお会いできなかったのは残念です。そのうち、ヘル・ヴィーゲラーでしたかしら?
…その方にはぜひお会いしたいし、また少しでも縁のあったものとして、お悔やみを申し上げたいと思います。
でも、今はその時ではない。そうでしょう?」
女王然と、男たちを見まわした。ダーヴィトは目を伏せている。そうでなくても表情の分かりにくいひとだ。
痛ましいものでも見るようなエーリヒの表情に、思わずたじろぐ。
「また、ヘル・ヴィーゲラーに連絡をとっていただけますわね、ヘル・グリュンデナー?」
「ええ、会社を通してなら、落ち着いた頃合いもわかるでしょうから」
彼の事務的な口調に、気負いが萎んだ。「貴方はお葬式に行かれるの?」「そのつもりです」
「私たちは…」「行かない方がいいでしょうね」エーリヒの声は沈痛だった。死んだ若者だけではない。夫人
が哀れだった。貴婦人らしい態度から、さっきの動転がまだ透けて見えている。それを気取らせまいとする虚
勢が痛ましかった。だが、彼女は今一度顔を上げた。
「ヘル・ヴェレンドルフには会えなくなりました(彼女はここで十字を切った)。でも、私たちはぼんやりし
てはいられない。いつまでもベルリンにいるわけにはいかないのよ」
「アナスタシア皇女には会えない、というお話でしたわね、ヘル・グリュンデナー?」
「ええ、彼女は今支援者のところにいるのですが、まだ精神状態が落ち着かないということで面会謝絶になっ
ています」
「その、オステン=ザッケン男爵でもだめなのかしら?」
「分かりませんね…彼は亡命ロシア人たちのリーダーではありますが、アナスタシア皇女の支援者というわけ
ではない。彼自身は信じているのかも知れないが…」
「じゃあ、まずオステン=ザッケン男爵にお会いしたいわ」
そう、このためにベルリンに来たのだから。「男爵を通して、皇女のことも分かるでしょう」
夫人の顔はまだ青白い。男爵を訪れたフライスコーアの若者のことをどう切り出すか、エーリヒはわずかに躊
躇った。「男爵は、今日訪問しても会ってくださるのかしら?」
「…確認してみます。電話番号は分かりますから」ラッセン中尉の目配せに気が付いた。
「すぐにかけてみますよ。電話はどこなのかな?」「ああ、さっき見かけたよ、案内する」
男たちが電話を探しに立った後、彼女はそっとバッグをまさぐった。本当は、ダーヴィトが疑惑を仄めかし
た時に思い出した名前だった。なぜ隠していたの、と小さな声を出す。ユリウスはあんなに苦しんでいたのに。
死んでしまったのに。私はまた生き延びて、今でもこんなところで、臆病にこの名前を弄繰り回している…。
便箋の表書きを、彼女は小さな鉛筆で素早く紙片に写し取った。
「アルノルト・フォン・シュヴァルツコッペン、イェーガーホフ/グルーネヴァルト***/ベルリン」