「あのひとは、本当につよいひとだ。見るたびに圧倒されるよ」。そう言ったのはイザーク・ヴァイスハイ
トだった…この友人のナイーヴさには、時にはいらり、と心をやすりで逆撫でされたような気持ちになる。
「家族の最後の一人を失ってさえ、誇りと笑顔を失わないんだから」。誇りと笑顔を失わない? 第一あれが
笑顔か? まるでローマ皇后の彫像、とりあえず上がった口角が石にこびりついているような顔が?
「さて、午後はどうするかい、マリアさん?」
レストラン「ラインゴルト」で食後のコーヒーを飲みながら、夫が問いかけた。窓の外のポツダム広場には、
無慈悲なまでに明るい日を浴びて、豪華にきらめく自家用車の群れ、無愛想な業務用の車たち、押し潰された
ように背をかがめて歩く尾羽打ち枯らした元・紳士淑女風の男女に加え、怒ったように歩く鳥打帽の労働者…
当初はヴァイマール共和国の念入りな労働者保護システムに支えられていた彼らにも経済崩壊は及びつつあっ
た……、周囲に険しい視線を投げかけながら徒党を組みのし歩く義勇軍の若者たち、混乱のベルリンが何かに
憑かれたように行き過ぎてゆく。かつて皇帝の来駕を得たという名門レストランは外国人客のおかげか、帝政
時代の悪趣味なまでの華やかさをそれでも保っていたが、今ではそれが何やら落ち着かない、不自然なことに
思える。
「どうかなすったの、グリュンデナーさん?」夫人の声にわれに返った。
「確かここは君のご推薦だったろ? そんなに変わってるのかい?」
「さぁ、僕が来たのは戦前だし……それに特別なときにしか来なかったものだから」
彼の15歳のお祝い。建築家として「グリュンダーツァイト(会社乱立時代)」を泳ぎ渡った父が、ついに憧れ
のミッテ地区に我が家を構えた時。そしてルディの誕生日……。
「特別なとき、だよ。僕らの宣戦布告じゃないか」「大げさね、ダーヴィト」優雅な苦笑。
「誰かと喧嘩をしようというわけではないわ…知りたいだけですもの」
「知るということは、戦争なんだよ」夫の陽気な声に、元情報部員の悲哀が僅かに滲んだ。夫人のいらえはな
い。年の差にもかかわらず、似合いの夫婦…そんな印象がふと揺らぐ。
「証人の誰かに会ってみてはいかがです?」エーリヒが助け舟を出した。「そうね…」
「最後にユリウスに会ったのは、オステン=ザッケン男爵かな? モーザー君とレンネマン嬢に関しては、正
直見たのかどうかも怪しいものだ」「あ…男爵は…」
立てつけの悪いドアと、肩をいからせた義勇軍の若者。「僕はヴェレンドルフ君に一票です」
そう、多分あの無邪気そうな若者の周りなら危険はないだろう。
「彼は話好きだし、こちらの話も真面目に聞いてくれそうだ」「ただでも?」「食事つきで」
夫人の綺麗な唇がわずかにほころんだ。「それじゃ、彼の会社に電話をかけてみます」
戦争中に庭師の爺やが亡くなってからというもの、屋敷の庭はどうかするとひどく荒んだ表情を見せていた
が、それでも5月は美しかった。庭の主でさえ忘れていたようなちょっとした片隅にも花が咲きこぼれ、優しい
色と香りを添えていた。アヤメやチューリップや三色すみれ、色とりどりの薔薇、門の裏手の一隅に溢れんば
かりの勿忘草を見つけた時は、思わず目頭が熱くなったくらいだ。そして、食堂から見える陽だまりを毎年埋
め尽くし、爽やかな香りを立ち上らせていた鈴蘭の一叢。妹はその花をひどく好んでいた。不思議な響きの歌
を口遊みながら、小一時間も眺めていることもあった。一度、咲いたばかりの数株をデルフト焼の壺に生け、
妹の部屋に持って行ったことがある。そのとき妹が見せた、鈴蘭の香りにも似た清浄で目に染み入るような笑
顔。そう、あの娘の記憶の底には、確かに幸福な時間があったのだ。それを甦らせたい。そう願ったのは、妹
のためだったのだろうか…それとも、目も眩むような幸福の記憶を間近に眺めたいという、地味に生きてきた
自分自身の願いだったのだろうか?
「疲れたの、マリアさん?」夫はいつも優しい。
「いいえ、大丈夫…きっと、この街のせいよ、あまりに目まぐるしくて」
「ご存知、なかったんですか?」エーリヒの電話には受付嬢が出た。
「ヴェレンドルフ記者は今朝方、アレクサンダー病院で亡くなりました」
「今朝?」「各紙の号外に出たはずですけど?」「え?」やがて電話の声が、紳士風の中年男性になった。
「クリストフの見舞いじゃないんですか、貴方、もう一度お名前をうかがえますかな?」
「エーリヒ・グリュンデナーです。アナスタシア皇女の件で何度かお話を…」
引き攣ったような、くっくっという声が電話口から聞こえてきた。
「クリストフめ…あの事件をまだいじくっていたのか…あいつめ…あいつめ…」
ヴェレンドルフは自嘲気味に「縁故入社」だと言っていた。この男性が彼を入社させた当人なのだろうか?
親類 か縁者、幼い頃からクリストフを知っていたのだろうか…。
「失礼ですが貴方は?」「『ベルリナー・ルフト』編集長、シュテファン・ヴィーゲラー」
洟をすすり上げるような音がした。「それではヘル・ヴィーゲラー…」
「クリストフがどうして死んだか聞きたいのかね? どうせ三文新聞に載っているだろうよ、その辺で買った
らよかろう」「あの…アレクサンダー病院でしたね?」「来んでよろしい、あいつの家族だけで送ってやりた
いからな。ああ、可哀想になぁマルティナ…」
「あの…今度お話できませんか、ヘル・ヴェレンドルフの件で…」
「レーゲンスブルクに帰りたい?」そう聞かれて、反射的に答えた。
「ベルリンに行きたいと言ったのは私よ、ダーヴィト」夫の目は優しく、そしていつも何も語らない…。
受話器を置いて、のろのろと振り返った。矢車菊の瞳と目が合う。悲劇的な瞳だ…。
「どうしたんだい、エーリヒ?」エーリヒの表情を見て取ったのか、ラッセン中尉の声がやや硬い。「ヴェレ
ンドルフには会えなくなりました…」「え?」
「死んだ…殺されたそうです。クーダムで、喧嘩に巻き込まれて…」