「さよならは云わないで」
1923年 秋 ベルリン

Nie Wieder Abschied



第1部 巡礼の街

  夏は終わりかけていた。                                                         
そして、クアフュルステンダムの真昼も、ゆっくりと翳ろうとしていた。 
夜の浮かれ騒ぎに疲れたような通りに、一瞬白々とした涼しいものが吹き過ぎる。
なくなっているわけがない。いや、なくなっていたとしてもその文言は既に暗記している。
それでも、エーリヒは内ポケットを探り、きっちりと四角く折りたたんだ電報を今一度確か
めずにはいられなかった。
 「8月31日午後1時7分 くーだむ・かふぇ・です・う”ぇすてんすニテ待ツ らっせん」
   探った指先が、もう一つの郵便物に触れた。

「親愛なるエーリヒ
君がベルリンに戻ったと、グスタフ・ザハリッヒに聞いたよ。正直、僕は君がルールくん
だりでくすぶっているのは似合わないと思っていた。大都会の方が本来君に向いている仕事
があるだろうし、その意味ではむしろ良かったんじゃないかと思う。 
 ところで、ベルリンにいると聞くなりものを頼むようで申し訳ないが、君の調査能力を見
込んでちょっとした仕事を頼みたいのだが、引き受けてもらえるだろうか? 3ヶ月ほど前
ベルリンで亡くなったある女性について、どうも納得のいかない話があるんだよ。このご時
勢だから新聞にも載らなかったような事件なんだが、残された者の気持ちとしてはそうは割
り切れるもんじゃない。                
   彼女は、4月23日の朝知人にベルリンに行くと言って、レーゲンスブルクの自宅を出た。
ベルリンに来るように記した手紙を受け取ったという話だったが、家族も知人もその手紙は
見ていない。シャルロッテンブルク宮殿を西に過ぎたあたりのシュプレー川で、彼女の遺体
が発見されたのはその3日後だ。死因は水死。警察の見解は事故ということだった。医者の
言ったことに間違いはないのだろう。ただ、襟に隠れてはいたが、彼女の首には何者かに絞
められた痕が薄く残っていた。確かめたのは僕自身だよ。遺族にははっきりとは言っていな
いんだがね。              
実はそのひとは、かなり不安定な状態にあったんだ。彼女は1905年にドイツの実家を出て
ロシアに行った。たったの17歳だった。彼女はあるロシア人の青年を愛していて、帰国した
その男を追って行ったんだ。僕はその男を知っている。いいヤツだったよ。ドイツに亡命し
ていた頃に知り合ったんだ。彼女とは似合いだっただろうな。そう、何があったか全部は分
からないんだが、二人が最後には夫婦として暮らしていたことは確かだと思う。
そして1917年の夏、彼は憲兵とペテルスブルク守備連隊兵士に射殺された。レーニン氏を
覚えているね、エーリヒ? ジュネーヴの小柄な紳士だよ。彼女の恋人はレーニン氏の一党
・ボリシェヴィキの闘士だったんだ。多分そのせいだったのだろう。秋の初めに亡命ロシア
貴族の令嬢と一緒にレーゲンスブルクの実家に戻ってきた彼女はロシアでの記憶をなくし、
それ以前の記憶も断片的にしか残っていなかったんだ。綺麗な抜け殻さ。夫が死んだ時彼女
のおなかには子どもがいたらしいが、少なくともドイツにはその子どもは連れて帰っていな
い。実家にも家族と言えば、姉が1人残っているきりだった。幸いこのひとは聡明で心の深
いひとで、彼女の記憶も少しは戻り、何とか日常の生活が送れる程度には恢復はしていたん
だ。
彼女がおかしくなったのは、例のロシアの生き残り皇女の記事を読んだ時からだ。この事
件はいくら君でも知っているだろう? 忙しかったからとは言わせないよ。多分革命時代の
辛いことを一部でも思い出したんじゃないかと思う。その頃から、夜中に怯えて泣き出した
り、色々情緒の乱れを示す言動が増えていった。挙句に、幻みたいな手紙に引っ張り出され
てはるばるベルリンだ。そして、あんな姿になってしまった。
そんな状態だから、警察も事故とは言うが、ほぼ自殺だと考えているのは明らかだった。
ベルリン首都警察のエミール・フェーゲライン警部というひとだ。君にはぜひ彼に会っても
らいたい。僕が首の扼殺未遂痕を指摘したのもこの人なんだが、それでも彼が事故(実質的
には自殺)説を変えなかった理由が聞きたいんだ。どうも僕は、この人に煙たがられている
ようでね。君の方が腹を割った話が聞けるんじゃないかと思う。
随分情報を出し渋っているようで申し訳ない。けれど、僕としてはなるべく君に虚心にこ
の件に当たって欲しいんだ。正直なところ彼女をめぐる話は随分錯綜していて当人の記憶が
なかったこともあり、実際彼女がなぜそんな死に方をしたのか、彼女を憎んだり恨んだりし
ている者がいたのか、大体問題の根はロシアなのかドイツなのかも判然としない。遺族――
彼女の姉上だが――も混乱している。どこまで話していいものか分からない、というのは、
このひと自身があまり公にしたがらない部分があるからでもある。
死んだ女性の名はユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤ。男名前に驚かな
いでくれたまえ。理由があって男装・男名前を通していたひとなのだ(少なくとも僕の知っ
ている限り)。
調査に際しては、遺族の依頼だと言ってくれたら良い。彼女の姉上マリア・バルバラさん
は、自分の名前を出しても構わないと言っている。調査費用として米ドルで300ドル書留で
送付しておいた(まさか木箱いっぱいマルク札を送りつけるとは思っていないだろうね?)。
僕自身、8月の末ごろにはベルリンに行く予定で、その時にはぜひ君に会いたいと思っている。
分かったことはその時に直接話して欲しい。
それでは、ベルリンで再会するのを楽しみにしているよ。君はベルリンっ子のくせにピルス
ナー・ウルケルが好きだったね。
敬具
1923年7月19日
レーゲンスブルクにて ダーヴィト・ラッセン 

紙焼き写真が同封されていた。家族写真の一部を撮影しなおしたのか、やや粒子が粗く、
どこか薄膜を通してみるように不鮮明な出来である。これが問題の女性なのだろう。波打つ
豊かな金髪を肩に流し、大きな瞳とかたちの良い唇。顔色はハレーションで淡く輝くほどに
白い。美しい女だ。だが、無表情というより無感情といいたくなる硬い顔つきは、彼女にひ
どく不吉な印象を添えていた。首元に同色のリボンのついた白いブラウスを着ているが、そ
れは病人の寝巻きにも、拘束衣にも、あるいは屍衣にさえ見える……。