いつ、どうやって帰ったのか、今になっても思い出せません。サモスードもあっただろうし、民兵の誰
何や発砲や…命にかかわるようなトラブルがあってもおかしくなかったのに。ペテルスブルクの7月の日
は長い。それでも、ヴァシリエフスキー地区に戻ったのは、太陽はすっかり中天を過ぎて、なまぬるい海
風がじわじわとネヴァ河から上がってくる頃合いだったはずです。息を詰めて台所の通用口のノブを回し
ました。かちゃん、という音がひどく高く耳についたのを覚えています。真っ白な顔をして、シューラが
いました。
――あの人の死は、エルミオーヌの恋の果てか?
(第5幕第1場)
「終わったの? 終わったのね?」
「ああ、全部終わった――老侯爵夫人も、忠僕も死んだよ。鎌やら肉切り包丁やら、兵隊用のライフルや
ら、ありとあらゆる武器と罵声があの屋敷の人々に降りかかったのだから。血まみれの家具やら家財やら
庭で燃やして、金気臭い煙が建物を喪のヴェールのように包んで――」
「死んだのね、みんな、みんな…」
――姫、この殺害はご嘉納あって然るべきもの、彼らの腕は実行に移したに過ぎない。
ことをここまで運ばれたのはあなたお一人… (第5幕第3場)
「嫌だ、嫌だ、そんな場所から来たのね、血の燃えるにおいがするわあなた…」
「何言ってんだ、それが君の望みだったんだろ。ついさっき、女王様のように誇らしげに、世界の終わり
を宣言していたくせに!」
「血の臭いなのね、これが…何よ、このコートの黒いものは? 煤なの?それとも…」
「なに厭らしげに見てるんだよ? 自分で殺しに行くとまで言っていたくせに!」
「来ないで! 来ないでよう!」「馬鹿な! 大声出してどうするんだ!」
――血も涙もない男、何ということをしてくれた? (同)
「さっきまで何でもできるみたいにふんぞり返って、死刑を見る女王のように高笑いして、今はこれか?
ひとったらしの血で、小娘みたいに悲鳴を上げるのか?」
「サーシャ、サーシャ、あの穏やかな、みんなが頼りにしてるサーシャなの? こんな残酷な、考えなし
の…」
「何が考えなしなんだよ!」「来ないで! 触らないで!」
――何ということを! あなたご自身がわたしに、ここで、
つい今しがた、殺せと、お命じになったではないか? (同)
「カッとなってたのよ、オーヴンに放り込まれたみたいに、体中が熱くなって…! そうよ小娘よ!
何を口走ってるかも分かってない馬鹿よ! のぼせ上った馬鹿な小娘、1時間もすれば頭は冷えたはずよ!
煮えくり返った国で、煮えくり返った頭で、何も分かってないそんな女のいうことを、あなた真に受け
たというの?」
「無責任な!」
「無責任はどっちよ、ずっとあたしを見ていたと言ったわね、何でもわかってるみたいなしたり顔で!
何でも分かってるなら…ああ、なんて恐ろしい! こんなところで何をしているのあなた? 人殺しの
街、人を飲み込んで沸き返る大鍋みたいな街…!」
「馬鹿な馬鹿な馬鹿な! ちっぽけな屋敷で女王様気取り、大口叩いても自分じゃ何をする度胸もなかっ
たくせに! 誰かほかの人間が殺してくれたらと、身勝手に望むだけ望んで! 人殺しはそっちじゃない
か! 主犯はそっちじゃないか!」
――これが、お前の恋の呪わしい結末なのだ。
お前の連れ歩く呪いを、理不尽にも、わたしのところまで運んで来た。 (同)
「いいか、何を言っても誤魔化されはしない、主犯は君だよシューラ…俺は所詮共犯者だ、士官の言う
がままに突撃する兵卒だ、君の言葉を実行したに過ぎないんだ…」
「俺は今夜、この街を…この国を出ていく。君も言っただろ、人殺しの街だ、何の未練もあるもんか。リ
ール行きのフランスの商船「ロクサーヌ号」だ。夜の9時半、芸術アカデミー前のスフィンクス像のとこ
ろにいろ。はしけを出して手配の船に向かう」――
――そして情け知らずの女め、逃げながら、俺の褒美に残したものは、
あの女に気に入られんがために引き受けた、ありとあらゆるおぞましい名だ!
(第5幕第4場)
それ以来シューラとは会っていません。今の今まで知りませんでしたよ、その後彼女がどうなったのか、
ロシアから脱出したのかどうかさえ…。
そうです、私はスフィンクス像には行かなかったんです。結局同じ穴の貉の私たち、互いに蔑みあい責任
を擦り付け合い罵り合い…つまるところ、私は彼女を捨てた。私に残ったのはあのゴロハヴァーヤ通りの
記憶だけだ。捨ててしまいたい記憶でしかない。あのヴィテブスク駅の思い出だけならどんなによかった
ことか…。
では、彼女は結局生き延びたんですね。新天地アメリカで結婚したんですね。ラシーヌの「アンドロマ
ック」では、エルミオーヌはピリュスの死体の前で自殺したのでしたね…なら、シューラは結局エルミオ
ーヌにはなれなかった。私もオレストにはなれなかった…成り損なったのだけれど。――彼女は幸せなの
ですか?
「よく話して下さいました。お辛い思い出でしたね、ムッシュウ」
ファブリ弁護士は皺だらけの手をそっと伸ばした。同名の息子は、タイプライターに向かい、ぽつり、ぽ
つりと文書を打っている。恐らく普段は秘書の仕事なのだろう。
「ミハイロフ、というのはその時に殺された方々の名前なんですね。それで腑に落ちました」
「彼女の義姉が、財産の使い方について異議を申し立てているという話でしたね」
「ええ、サンドラ・ヴァン・トリップ夫人は、ニューヨークのロシア正教会に、『ミハイロフ家のために
祈りを』と言ってかなりの額の寄付をなさっていました。それが、ミス・ベアトリスには許しがたかった
ようで…」
「…彼女も、悔いていたということなのでしょうか?」
「さあ、どう考えればいいのか――今のお話で更に分かったこともありますし」
「私の話でですか?」「そうです、ベルリンの情報と突き合わせてみますとね…」
「ベルリンと言いますと?」「デニス・ニコライェヴィチ・タラーノフをご存知ですか?」
「ノヴゴロド生まれの? 同僚ですよ。彼も私と前後して国を離れたはずです」
「ええ、今ベルリンにいます。その彼が、シューラ・ウスチノヴァ嬢らしい女性をヴァシーリィ島の船着
き場で見かけたと言っているのです。ええ、そう、貴方のお話にあったスフィンクス像のところで…」
「シューラは私と亡命するつもりだったと…?でも、彼女はアメリカに…」
「ええ、エリス島の記録によると、サンドラ夫人は1917年9月初めに合衆国に入国しています。父親セミ
ョン・ステパノヴィチ、弟ヴィクトル・セミョノヴィチと一緒でした」
「なら、彼女は結局その後屋敷に戻って、改めて父親と出国したのですね?」
「それが…タラーノフ氏が目撃したのは…その女性が、リンチ…サモスード、というのでしたな…に遭い
かけた掏摸の少年を庇おうとして、殺されたところだったのです…あっという間の出来事だったそうです。
彼自身もはしけから見ていたので助けようがなかったと…」
「でも? シューラは父親と…?」
「分かりません。タラーノフ氏はウスチノヴァ嬢と面識はあったし、スフィンクス像という場所も、貴方
のお話の後だと強い信憑性がある。けれども遠目に金髪が翻るのが見えた、というだけだとも話していた…」
「金髪、ですか」襟に着いた金髪、それを取り捨てた金髪の女…。
「テレーズ・ポワジェ…」「ええ、私もそれを考えました。ウスチノヴァ嬢によく似ていたそうですね…
でも、その逆の可能性も考えられませんか…」
「…つまり、アメリカのサンドラの方がテレーズだと?」
「お話にありましたね…テレーズはウスチノフ氏と関係があったと…愛人なら亡命の際に連れて出てもお
かしくない。息子のヴィクトルは幼少でしたから、女手がいるという事情もあったでしょう…姿を消した
娘の旅券をそのまま愛人に与えるだけです。ウスチノフ氏は1918年に亡くなっていますよ、ついでながら。
ヴァン・トリップ氏との結婚はその1年後でした」
「では、シューラはあの夜に死んだと…? では、何のためにテレーズは寄付をしていたと? 自分が殺
したのでもない人々のために?」
「さあ、分かりません…テレーズというひとは、おふたりの企みをかなりよく知っていたのでは? それ
に、おそらく令嬢が死んでいることも…令嬢の身分になり替わったことに良心の咎めを感じていたという
ことも考えられます…あるいは、より令嬢と同一化しようと考えたとか」
「ヴィクトルに聞けば簡単でしょう?」
「ヴィクトルは父親と前後して亡くなっています…二人ともスペイン風邪でした」
「そうですか…スペイン風邪ですか…」
「でも、今回のケースには関係のないことでしょう」
トマ・ファブリ=フィスの、不要なほどに明るい声が響いた。
「ミス・ベアトリスが問題にしているのは、アメリカで弟のウィリアムと結婚した女なんですから。前身
がロシアの富豪令嬢だろうと、フランス人の愛人だろうと」
空気が冷えた。陽気な声はさらに続く。
「いずれにせよ、もう死んでしまったひとの話なんだし」
ええ、ミセス・サンドラ・ヴァン・トリップは亡くなりましたよ…彼女の夫のウィリアム氏は去年の11
月、例の「暗黒の木曜日」で全財産を失って、マディソン街の自宅から飛び降りて命を絶ちました。サン
ドラに残されたのは夫の死んだそのマンションだけだった。彼女が死んだのは今年の2月です。悲しみの
あまり死んだ、といえばいいのでしょうね。でも、ありていに言えば凍死です。栄養失調の体で、暖房の
入っていない部屋でニューヨークの冬を過ごせばそうなります。セントラル・パークの浮浪者と同じこと
です…。
そういえば、ベアトリスは、サンドラの猫のことを気にしていました。遺体のそばにいなかったので。
でも、どうやらこっそり別の家で食べものをもらっていたらしい。きっとそちらで飼われてるんですね、
多分、今でも…。
*ゴチック体の文章は、渡辺守章訳、ラシーヌ「アンドロマック」(岩波文庫『フェードル・アンドロマ
ック』所収)から引用しました(ぼーだら)。