なつ様


「置いていかないね?きっと・・・?」                             
       「あぁ。」


眼が覚めたぼくは、一人ベッドにいた。慌てて飛び起き部屋から出た。屋敷中を駆け回り彼の名を叫んだ。
「クラウス〜!クラウス〜!!」
けれど彼の姿はおろか、昨夜邸にいた使用人ひとり見つけることは出来なかった。その時御者が声をかけて
きた。
「探しても無駄だ。使用人たちは昨日のうちにヒマを出された。誰も邸には残っていないよ」

ぼくは御者にしばらく待ってもらう事にした。
彼がいない現実と置いていかれた事実。守られなかった約束。ぐちゃぐちゃな気持ちの整理をつけたかった。
邸を歩いていると、中庭にミモザの木があった。この屋敷に来た時に強く香っていた。あの香りがアルラウ
ネの化身のように思えた。

―アルラウネがクラウスを連れて行ってしまった。ぼくの手の届かない所へ……。           
       
何故か置いていかれるだろうということを、ぼくはどこかで確信していた。ぼくはクラウスにとって、“同
志”ではないという事も……。

ミモザの枝に手を伸ばした時、ぼくの手の甲に白い冷たいものが落ちてきた。
「初雪だ」
むせ返るようなミモザの香りを嗅ぎながら、ぼくは静かに涙を流した。いく筋も頬を伝う涙が心を鎮め、傷
ついた心を癒してくれる。そしてぼくは現実を受け入れた。

家に着いたのは昼近くだった。かあさんは一晩中ぼくを待っていたようだ。玄関の扉を開けると、かあさん
が駆け寄ってきた。眼が赤い。きっと心配したのだろう。
かあさんは何も言わず、ぼくを抱きしめた。
「どこに行っていたの?帰らないから心配したのよ」
「ごめん、かあさん。危ない事はしていないから・・。本当にごめんなさい」
かあさんに叱られない事が余計に辛かった。俯いたままでいるぼくにかあさんが言った。
「分かったわ。部屋へ行ってゆっくり休みなさい」
そう言われた瞬間、涙が出そうになったが、かあさんに気づかれたくなかった。
「うん」
短く返事をして足早に階段を上がった。部屋のドアを開ける頃には涙が頬を伝っていた。これが現実なのだ。
ぼくはかあさんを捨てることは出来やしない。そしてぼくはこの地、レーゲンスブルクでアーレンスマイヤ
家の第14代当主として生きていかなければならない。
逃れられない運命としがらみを呪いながらも受け入れて行くしか、今、自分の生きる道はない。

−クラウス、今頃君はどこにいるの?
ヴァイオリンの事も、ぼくの事も忘れることが出来るの?
ぼくは忘れられないよ。だって君はぼくが生まれて初めて愛した男性だから。
今も、きっとこれからも、この気持ちは変わらないよ。
君を、ずっとずっと愛している。

ミモザの香りが部屋いっぱいに広がっていた。
朝にちらついた初雪はすぐに雨へと変わり、灰色に染まった街中に大聖堂の鐘が大きく響いていた。



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