なつ様
いつの間にか外が白んでいた。赤い目をこすりながらも、レナーテの口元には笑みが浮かんだ。
―あぁ良かった、なんとか間に合ったわ。
部屋の奥のベッドに目をやると、ユリウスがスヤスヤと眠っていた。
「ユリウス、少し早いけど起きて。カーニバルへ行くわよ」
「カーニバル?フランクフルトはまだだよ」眠い目をこすりながら少し不機嫌そうに答える。
「マインツのカーニバルへ行きましょう。衣装も用意したわ」
「仮装するの?」
「そう、女の子にね」
「えっ!?」
驚いた声を出したきり、ユリウスは黙ってしまった。レナーテは先ほど縫い上げたばかりのドレスを見せた。ユリ
ウスの顔がほんのりピンクに染まった。
「さぁ、着て見せて」
レナーテに促され、ユリウスは夜着を脱ぎドレスを身にまとった。普段シャツを着ているので、背中のホックが止
められない。レナーテに助けを求めた。
「母さん、ホックを止めて。ドレスってどうして後ろにホックがあるの?」
「ドレスを綺麗に見せるためでしょう。ほら、動かないで」
楽しそうな母娘の会話。
本来であれば当たり前の会話だった。
ユリウスは初めて着るドレスに心が踊った。母の鏡台の前に立つ。そこにはドレスを着た自分の姿、本来の自分−
女の子の自分がいた。嬉しいような、くすぐったいような、恥ずかしいような…いろいろな思いが入り混じってい
た。そんな彼女の様子を見ながらレナーテが言った。
「やっぱり少し大きかったわね。あなた、身長は伸びたけど身体は細いままだから…」
ユリウスはドレスの脇をつまみ
「胸は成長してないからね」
少し自嘲気味に笑って言った。
それでも、初潮を迎えてからユリウスの身体は丸みを帯び、柔らかさが日に日に増していく。今は胸の膨らみは僅
かだが、もう少し経てば目立って来るはずだ。母として娘の成長は嬉しい。しかし、性別を偽っている以上、女性
らしく成長することは好ましくない事なのだ。
レナーテは複雑な気持ちでユリウスを見つめた。レナーテの視線にユリウスは気付いた。
「何?」
「やっぱり女の子ね。よく似合っているわ」
「何、それ?普段は女の子だとバレないように気をつけなさいって言ってるくせに」ユリウスはそう言って反論し
た。
「そうだったわね」
レナーテは悲しい瞳でユリウスを見つめ返した。
「ごめん、母さん」
「謝らなくていいわ。さぁ、ここに掛けて。髪を結いましょう」
レナーテはそう言うと、肩までの長さしかないユリウスの金色の髪を櫛で梳きながら結い、リボンを結んだ。
「とても似合っているわ。可愛いいわよ」
「本当?おかしくない?」
「ちっとも」
ユリウスは母に念を押した。髪を結うなど、今までの人生で一番もなかった。だから似合っているかどうか自信が
なかったのである。
汽車に乗りマインツに向かった。マインツに着くとすぐにユリウスは駆け出した。ドレスの裾が翻る。
「そんなに走ったら危ないわよ」
「平気だよ。ねぇ母さん、ドレスって走りにくいんだね」
屈託無く笑うユリウスが愛おしかった。そして切なかった。
ひとしきりカーニバルを堪能したユリウスはレナーテの元に帰って来た。頬を紅潮させ見て来た事を報告する。
「たくさんの人たちが仮装していたよ。兵隊の格好をした人がたくさんいた。通りの人を見ているだけでも飽きな
いね」
「本当ね。たくさんの人が仮装しているわね」
「この街ではぼくを知っている人はだあれもいないから、 女の子の格好をしていても全然気にしなくていい 。ふ
ふっ、今日一日、思い切り女の子を楽しむよ」
ユリウスは嬉しそうにそう言うとドレスの裾をつまみくるりと回って見せた。
レナーテは優しく頷き微笑んだ。
―愛しい娘よ。
ごめんなさいね。あなたの人生全てを奪ってしまって…。
でも、どうしても許せなかった。身籠った後、アルフレートの私への態度が…。
あんな風に捨てられて、こんなに苦労して働き、あなたを育てて…。
あなたが心優しい子だから、その優しさに甘えて今日まで来てしまった。弱い母さんを許してちょうだい。
ユリウスが成長するたびに野望は罪悪感に変わって行く。彼女に心で詫びながら、その一方でもう後戻りできない
ところまで来てしまっているのだと自分に言い聞かせる。
「どうしたの、母さん?さっきから暗い顔をしているよ」
「何でもないわ、大丈夫よ」
レナーテとは対照的にユリウスの表情は生き生きしていた。
若く未来の希望に満ちあふれた少女。
突然レナーテはユリウスを優しく抱きしめた。いきなり抱きしめられてユリウスは驚きの表情で母を見つめながら
言った。
「母さん?」
「…少しだけ、こうしていて…」
「うん、分かった…」
そう言ってユリウスも母の背中に手をまわした。暖かな母の温もりを感じて、ユリウスは少しだけ甘えて見たくな
った。普段は男の子として生きているためか、無意識のうちに母親を守らなければならないという思いがあった。
だけど今は、外見も中身も女の子。今だけ普通の女の子として甘えたかった。
「母さん、向こうでお菓子を売っていた。すごく美味しそうなのがいっぱい!ねぇ、買って」
今まで物をねだった事がないユリウスの初めてのわがままだった。 レナーテはユリウスの手にコインを一枚のせ
た。驚きの表情と同時に満面の笑みを浮かべて、ユリウスは走ってお菓子を買いに行った。
露店には多くの人が並んでいた。ユリウスは目当てのお菓子を手に取り店主にコインを渡そうとした。そのとき、
数人の少年たちが彼女を押し退け割り込んできた。 押し退けられた勢いでユリウスは転んでしまった。 少年たち
は、そんな彼女に目もくれず、我先にとお菓子を買おうとしている。ユリウスの瞳に勝気な色が灯った。
「何するんだよ!この…」
と言い、少年たちに飛び掛かろうとした時、亜麻色の髪の長身の少年が間に入った。
「おい、女を突き飛ばしておいて何も言わないつもりか?」
「なんだよ、こいつ。お前には関係ないだろう」乱暴少年はそう言うと長身の少年に殴りかかった。それを上手く
かわしながら、長身の少年は乱暴少年の腕を取り背中にまわした。他の少年が加勢するが、長身の彼にはかなわな
い。乱暴少年は「憶えてろよ!」と捨てセリフを吐き逃げて行った。
長身の少年は振り返り、ユリウスに声を掛ける。
「大丈夫か?怪我はないか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
ユリウスは、少し頬を染めて答えた。
「気を付けろよ。それと…」
クスッと笑いながら彼は言葉を続けた。「女だてらに男に殴りかかるのは無茶だぜ」
長身少年の鳶色の瞳が笑っていた。
ユリウスは目を丸くした。
−ああ…そうだった。今日は女の子の格好をしていたんだ…。
「じゃあな」そう言いたち去ろうとした時、ユリウスは思わず声を掛けた。
「あ・・!ねぇ、君。名前は?」
「名前?…名乗るほどの者でもないさ」
そう言い、優しい鳶色の瞳を一瞬彼女に向け、長身の少年は立ち去って行った。
ユリウスの中に何か温かい物が流れ込んだ。生まれて初めて女の子として扱われたことに少し戸惑いながらも、嬉
しさが込み上げてきた。
「そこの女の子。大丈夫かい?ほら、お菓子」
店主に声を掛けられ、ユリウスは我に返った。
「ありがとう」
笑顔でお菓子を受け取り、ユリウスは母のもとに帰って行った。
「母さん、さっき乱暴な男の子に突き飛ばされちゃった。だけど、背の高い男の子がかばってくれたんだ。女の子
として扱われたのが初めてだったから、少しびっくりしちゃったよ」
頬を上気させ報告するユリウスを、レナーテは静かに相槌をうちながら聞いていた。
「まぁ、怪我はなかった? 良かったわね、その背の高い男の子が いてくれて」
「うん。今日は楽しかった。女の子としてたくさん楽しめたよ」
「そう。母さんも楽しかったわ。そろそろ帰りましょう」
「うん。帰ろう」

「あら、どこにいったかと思ったら…。迷子にでもなっていたの?」
黒髪の、少しきつい瞳の女性が長身の少年に声をかけた。
「迷子になんかなってないさ。ちょっと少女を助けていた。しかし、ドイツ人の女はあんたみたいに気が強いのが
多いんだな」
「まぁ、失礼ね!」
黒髪の女性は軽く笑って答えた。長身の少年も、つられるように笑った。
「さぁ、行きましょうか。レーゲンスブルクへ」
「ああ」

ユリウスは車窓から流れる景色を眺めていた。だんだん見慣れた景色が近づいて来る。
ユリウスの表情も、いつもの勝気な瞳の少年のそれに戻っていた。窓に映る自分の姿を見ながら、彼女は髪を束ね
ていたリボンをそっと解いた。
フランクフルトの自宅に着くと、ユリウスはすぐにドレスを脱いだ。
いつものシャツを羽織るとレナーテに向かって言った。
「母さん、今日は楽しかった。ありがとう」
そして強い意志を宿した瞳で告げた。
「このドレスは誰かに譲って。ぼくはこれからもずっと男の子だから」
そうきっぱり言った。
レナーテは複雑な気持ちだったが、それをユリウスに悟られないよう表情を作った。
「分かったわ」
それ以上は何も言わず、彼女からドレスを受け取った。
レナーテは受け取ったドレスをそっと胸に抱きしめ、ユリウスに気づかれないように一筋の涙を流した。
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