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声なんか出ない。後ろ向けにひっくり返りそうになって、振り回した手が調理台にあたって空が落っこちてきたみたいな音
がした。調理台につかまって、ちょっとは人心地が付いたんだと思う。やったのはグリーシャだ――まずそう思った。旦那様
や奥様はどうなっただろう。たぶん殺されたんだ。スカートに血がついてないか確かめた。まず逃げなきゃ。とにかく逃げな
きゃ。お勝手に置いてある、出入りの商人たちの支払い用のお金をスカーフにくるんで胸元に押し込んだ。ステパニダをまた
いで裏口から出ることなんてできやしない。普段めったに使わない、お客様を招き入れる玄関口に向かった。真っ暗な家の中
明かりをつけることも思いつかないで手探りで進んでいると、なんだかこの暗闇が永遠に続くような気がして空恐ろしいよう
な心持ちになる。自分の歯の根が合わなくて、カタカタ、カタカタ、っていってるのがすごく大きく聞こえた。玄関の扉を開
け放つと、街は銀色の月明かりに濡れていて、ああこれで助かったって泣きたくなったのをよく覚えている。
ともかく少しでもにぎやかなところに行きたくて、センナヤ広場を目指した。よく考えたら、にぎやかなところって、それ
こそグリーシャに見つかってしまうかもしれないしかえって危ないようなもんなんだけど、そんなこと考えてられなかった。
コクーシキン橋まで来ると、グリバエードフ運河がキラキラしてるのが見えて、また涙が出た。なんだかほっとして橋のたも
とにへたり込んだ。誰も乗っていない小さなはしけがもやっていて、波が横板にあたるパタン、パタンという音がひどく優し
く聞こえた。
しばらくそうしていたと思う。なんでそんな酔狂考えついたのかよくわからない。あたしは、はしけめがけて飛び降りた。
ひっくり返るかな、と思ったけど、はしけは掌を広げたみたいにあたしを受け止めてくれた。子供のころは、男の子に交じっ
てボートで魚釣りに出掛けたもんだ。はしけにはあまり大きくない鉤竿と櫂が置いてあって、あたしにも扱えそうだった。あ
たしはトン、と壁を突いて、夜の運河に漕ぎ出していった。
夜の街はしんと静まり返って、どこかで酔っ払いがわめいているのが遠くくぐもって聞こえてきて、それさえも不思議な歌の
響きみたいだった。エカテリーナ運河に出て、さらにモイカ運河を目指した。あれは本当にお伽話のような夜だった。真っ暗
な血の匂いのする盗賊の家を抜け出して、優しく歌う波に運ばれながら銀色の運河を進んでいく。白い石造りの運河の壁は月
の光を浴びてほんのり輝く妖精のお城のよう、目の前には柔らかく光り輝く絨毯のようにさざ波を浮かべた水面が延びている。
石造りの人魚たちまでがあたしに微笑みかけているみたいだった――その石の髪の毛の先にキラリと光るものがあたしを呼ん
でいた。宝石をはめ込んだ小さなブローチだった。
――もう時効になったものとしてお話してるんですよ。多分盗品を隠したものか、強盗事件か何かの際に零れ落ちたのか、
それとも本当にただの落とし物だったのか――ただ、私にとっては天の助けみたいに見えたことも確か。あれがなければ、私
はあの1917年の夏をどう乗り切ったのか想像もつきません。そしてあのひとにあうこともなかった――。
朝、一番乗りであたしは今まで入ったことのない、小さい質屋に飛び込んだ。「奥様に頼まれたのよ、早くして頂戴」死ん
だステパニダの口調を真似て、せいぜいお上品ぶった小間使いらしく振舞った。「こういったものはそんなに値が付かないん
だよ」眼鏡をかけた中年の店主は渋い顔をした。「いいじゃないか、お嬢さんがお困りだ」客とも店員ともつかない、にやけ
た若い男が横から口を出した。「あんたこんな店初めてなんだろ? 外は物騒だ、送ってやろう」目をキラキラさせていたス
テパニダとざっくり裂かれた喉が目に浮かんだ。「こんな店で悪かったね」仏頂面の店主から質札と硬貨をひったくって、あ
たしは外に飛び出した。そのお金で男物のズボンとルバシカと、パンと毛布とナイフを買った。はしけに戻ってズボンとルバ
シカを着て、ナイフで髪の毛を短く切った。ふわふわした金色の髪の毛は、夕焼けの雲みたいに運河の波にしばらく浮かんで
いた。
それからあたしははしけで寝起きした。なるべく人目につかない明るくない時間に運河をはしけで動いて、鉤竿で水底をさ
らった。財布はたくさん入っているのもしょぼいのも、たまには宝石とかも。幸い夏だったから、動ける時間は少なくなかっ
たので、何とか小娘一人食っていけるくらいの実入りはあった。いつまでもできる暮らしじゃないとは思ったけれど、ほかに
あてもないし、とにかく無事でその日を暮らすのが一番大事だった。
――今思い出せば、随分恐ろしい切羽詰まった暮らしだったはずなのに、まるで夢の中の物語のように柔らかく美しい色彩
の中に浮かんでいたような気もします。白夜の長い長い薄明の中、石の人魚たちに見守られながら鉤竿を操っていると、まる
で何百年も前のお伽話の中で暮らしているかのような不思議な感覚が湧いてきたものです。リラのような薄紫の光のなかで白
い都が溺れるように揺らめいて、暗い運河は眠るようにその足元にうずくまり、橋をくぐるごとにわずかに下りてくる青色の
薄闇に、厳しく美しい女神めいた人魚たちが浮かび上がる。時折夜を引き裂いていく悲鳴や銃声にさえ、物語じみた芝居めい
た雰囲気がありました。そんな事件があっても、運河は不愛想な乳母のように、私のはしけを規則正しくゆすり続けていたの
でした……。
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