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想い出 1917年
後 編

なつ様
アレクセイは久しぶりに邸を訪ねた。
ユリウスを祖母に預けて数ヶ月、もうつわりも治まり安定した日々を送っている頃だ。
オークネフがリビングへ案内した。
祖母・ヴァシリーサが孫の来訪を待ちかねていた。
「まあアレクセイ!今回は少し間があいてしまったね。元気にしていたのかえ?」
「ぼくは大丈夫です。それよりも、おばあさまがお元気そうで何よりです。ところで、あいつはどうしていますか?」
「今オークネフが呼びに行っていますよ。とても元気になって…あの娘を見ていると毎日飽きないわ」
―――あいつ、まさかとんでもないお転婆をしているんじゃないだろうな?
アレクセイはレーゲンスブルク時代を思い出し、一瞬不安になる。
カチャリ…。
ドアが開く音がして、アレクセイが振り返った。
そこには髪を結いリボンを結んだ妻が立っていた。
「ご機嫌よう、アレクセイ」
マーシャに教わった通り、にっこり微笑んで挨拶をするユリウス。
しばらく声を発することを忘れて、彼女を見入っていると、堪りかねて祖母が声をかけた。
「アレクセイ、奥方に挨拶を…!」
「あ…!」
アレクセイはソファから立ち、ユリウスのもとに行き、彼女の頬にキスをした。
「元気そうだな?」
「うん、元気だよ!たくさん食べられるし、よく眠れる」
「そうか。それは良かった」
ユリウスのドレス姿は何度か見て慣れてきたが、今日のように髪を結いリボンを付けた姿を見るのは初めてだった。
―――こいつ、本当に女なんだな…。
当たり前だが、こういう姿を見るとドキっとしてしまう。
ひとしきりリビングで会話を楽しんだ後、アレクセイはユリウスを庭に誘った。
季節は春から夏へと変わろうとしていた。
手入れが行き届いているとはいえない庭だが、新緑の季節、芝生も青々としている。
庭で2匹の猫が戯れていた。
「ノラ猫か?」
「邸の庭に住みついてるみたい。最近は暖かいからよく庭で遊んでいるよ」
ユリウスが近づいても、猫たちは逃げようとしない。
彼女がよく庭に来ているということか…とアレクセイは思った。
1番大きな木の下に、2人は座った。
アレクセイは彼女の髪を撫で、リボンに触れた。
「マーシャが結ってくれたの。リボンなんて付けたことないから…。おかしくない?」
「どうしてそんな風に思うんだ?よく似合っているぜ、そのリボン」
ユリウスは薄っすら頬を染めた。
その時、仲良く戯れていた2匹の猫がケンカし始めた。
「あ、こら??ケンカしちゃダメだよ!」
ユリウスは慌てて駆け寄ろうとして、ドレスの裾を踏んでしまった。
咄嗟にお腹をかばい芝生の上に倒れこんだ。
「おい!大丈夫か!?」
アレクセイが顔色を変えて彼女に駆け寄った。
「ユリウス!怪我は?お腹は大丈夫か?」
「お腹は打っていないから平気だよ」
猫たちはケンカを止めようとしない。
「ダメだったら!!」
転んだ姿勢のまま彼女は叫んだ。
「猫より自分の心配をしてくれ」
アレクセイは彼女の手を取り、起こしながら少し呆れたように言った。
その瞬間、とても懐かしい光景を思い出した。
過去にもこうして女の手を取り、起こしたことがあった…と。
―――そう、あれは亡命先のドイツに着いてすぐ、どこかの街のカーニバル…。
短い金色の髪にリボンを結んだ少女。女の子なのに少年数人に向かっていった勝気な少女。そういえば、男っぽい口調
で名前を聞かれたな…。
「どうしたの?」
ユリウスが彼を見上げながら言った。
ほとんど顔を思い出せない少女とユリウス。
彼が鮮明に覚えていたのは、金色の髪とあのリボンだけだった。
アレクセイはユリウスの手を取り、抱き起こした。
「もしかしたら、レーゲンスブルクで会う前に、おまえと出会っていたのかもしれないって思ってな…」
「えっ!?どういうこと?」
アレクセイはドイツに亡命した直後、ある街のカーニバルでの出来事を話した。
ユリウスはリボンに触れながら答える。
「もし本当にそうだったら…、それはすごいことだよね。ぼくたちはあの窓で出会う前から、運命で結ばれていたって
ことにならない?」
碧い真っすぐな瞳がアレクセイを見つめる。
アレクセイもそれに応えた。
「ああ、そうだな!」
―――オルフェウスの窓で出会う前に、別の場所で会っていたとしたら、あの「窓の伝説」は関係なくなるのだろうか?
いや、例えこの愛が伝説通りだとしても、必ず打ち勝ってみせる!こいつと赤ん坊と3人で必ず幸せになる!
アレクセイは、伝説を打ち負かす「愛の真実」を信じたかった。
アレクセイはユリウスを抱きしめ、再び彼女のリボンに触れた。
「本当に良く似合っている」
「うん…ありがとう」
ユリウスは、遠く霞んだ記憶の向こうの手と、今現実の優しく温かい手と両方を重ね合わせ、夫と母に見守られ愛され
ている自分を強く実感した。
春の終わり…穏やかな時間。
爽やかな風が、長い金色の髪とともにリボンを揺らしている。
お わ り
Das Ende
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