ミュンヘンへ向かう列車の中。
ファシストどもがつけている。
みていろ、まいてやる。
同席の老人が声をかけてきた。適当にやり過ごしていた時、とんでもないものがおれの視界に入ってきた。
裸馬にまたがったあいつ。
懸命に手綱を操り、列車を追いかけてきている。何か叫んでいた。
どこまで無鉄砲なんだ! 馬で列車を追いかけるなど正気の沙汰じゃない。
と思ったとき、馬がつんのめった。さすがに疲れたのだろう、馬はあいつと共に大地にもんどりを打つように倒
れこんだ。
叫びたくなるのをどうにか抑えた。
列車は、そんなことなど意に介さないように進んでいった。
ユリウス!!
横目でつけているファシストどもを見る。気が付いていない。
馬はともかく、あいつはけがなどしていないか……? あいつの顔しか浮かんでこない。
何を考えている、アレクセイ。おれはロシアに帰らなければならない。
フライジング駅の手前、陸橋があったはずだ。そこなら……。
座っていろ、このまま。何もなかったようにすればいい。
大丈夫だ、あいつは諦めて帰るはずだ。おれは……。
陸橋に列車が入った瞬間、勝手に身体が動いた。
あいつの無事を確認してからでも間に合う。
あばよ、兄貴のストラド、縁があればまたこの腕に戻ってこい!
いまは、置いていく。
全身ずぶぬれになりながら、おれはあいつを探した。
たしか、陸橋の手前、大きくカーブをするあたりのはずだ。
すっかり落ちて乾いた木の葉を踏みながらあいつを探す。
ユリウス……。
乗っていただろう馬の手綱を引きながら、トボトボ歩いているあいつ。
夕陽を背に浴びながら金色に輝く髪。すらりとしたシルエット。
カサリと、枯葉を踏みしめると音がした。
涙を浮かべながら振り向いたおまえ。
「ばかたれめ、おれを殺す気か《
濡れた髪をかき上げ、わざとぶっきらぼうに言った。
本当におれを殺す気だ、こいつは。
こいつの一挙手一投足から目が離せないおれの心を知っているようだ。
おまえはいつでもおれの心を乱す。
無邪気に真っ直ぐにおれを見つめ、全身全霊をかたむけておれにぶつかってくる。
今もそうだ。
涙でぐちゃぐちゃになりながら駆けてくる。
受け止めてやるよ、おまえはおれのエウリディケだから。
体当たりをするように、おれに飛び込んできたおまえをしっかりと受け止めた。
全身でおれに飛び込んできたおまえ。
そのまま、枯葉の上に倒れこんだ。
濡れたおれを気にもせず、おまえはおれの胸にほほを寄せて嗚咽を漏らしていた。
おれに身体を預けているおまえは、本当に華奢で頼りなげだ。
ゆっくりとおれは身体を起こし、ユリウスを仰向けにして見つめた。
碧い瞳からはとめどなく涙が流れている。
夕陽に輝く金色の髪をそっとなでつけた。
どんなに愛しても愛していても、おれはおまえと一緒にいることはできない。同じ道を歩むことはできない。
それでも、愛さずにはいられなかった。
こいつの細い顎を指でとらえ、少し上に向かせた。
初めは軽く唇を軽く合わせた。
柔らかく温かい。
2、3度ついばむように合わせた後、深く口づけた。
こいつのすべてを知りたい衝動のまま、歯列を割り、舌を絡めた。
戸惑い気味のユリウスだったが、おれの情熱を注ぎ込むような口づけに応えてきた。
おれの背中に両手を回して、すがるように抱きしめてくる。
おれはいつまでもこうしていたいと思った。
口づけをかわし、覆いかぶさるように抱きしめた。
おまえ、こんなに華奢だったんだ。折れそうなくらい細い身体を抱きしめ、もう一度唇を重ねた。
おまえはおれに応えようとしがみついてくる。
風が吹くと背中がひやりとした。
さすがにずぶぬれでは肺炎を起こしそうだった。
ユリウスのほほや額に口づけをし、身体を起こした。
「どこまでも無鉄砲だな、おまえは《
「……うん《
「とにかく、おれは肺炎を起こしそうだ。その馬をどこかに預けていこう《
おれの言うことに素直に聞くおまえ。
繋いだ手が頼りなげだ。
こいつの乗ってきた馬を近くの農家に預けた。
よく躾けられていたようで、おとなしくその農家の紊屋に収まった。
辻馬車に乗り、とりあえずミュンヘンのアルラウネが待つ家に向かわねばならなかった。
ミュンヘンに向かう途中もおまえは何も話さない。
時折、おれを見るがすぐに視線を逸らせる。
おれは寒さに耐えるしかない。
ミュンヘンの拠点である屋敷に着き、御者に代金を払うとこいつを屋敷に入れた。
すでにアルラウネは待機しており、こいつを連れてきたと言った時には一瞬眉をひそめたが、そこはできてい
る。
艶やかにほほ笑むとこいつと一緒に夕食を取った。
おれは冷えた身体を温めたくて、夕食もそこそこに風呂に入り、冷え切った身体に熱を戻した。
静まり返った屋敷。こんな夜はヴァイオリンが弾きたくなるが、兄貴のストラディバリは列車に置いてきた。
仕方なく、この屋敷においてあるヴァイオリンを手に取った。
調弦をし、簡単なソナタを弾く。悪い楽器ではない。
澄んだ空気の中、ヴァイオリンは清らかな音を奏でる。
押さえた弦が指先を通して振動をする。弓がしなるように弦の上を滑り、艶やかな音をつま弾く。
初めて兄貴の演奏を聴いた時、全身が総毛だつような感覚を覚えた。身体中がぞくぞくし、自然と涙があふれ
る。ヴァイオリンが奏でる音に全身が共鳴した。
その日から、おれはヴァイオリンの虜になった。
あいつが部屋に入ってきた。
おれはヴァイオリンを弾いていた。
兄貴のストラディバリではないが、なかなかいい楽器だ。兄貴のストラドは列車の座席に置いてきた。あいつと
引き換えに。
夕食を終えたあいつが音楽室に入ってきた。まるで吸い寄せられるように。
アルラウネが用意したのか、白いボウタイに淡いグレーの上着を羽織っていた。
「いいよ、そのままで《
あいつは少しひきつった表情でおれに言ってくる。
「一緒に弾いてみないか? 初めてだろ?《
おれの言葉に一瞬、あいつは戸惑ったような表情をしたが、ロマンスなら弾けると言ってきた。
ピアノの前に座り椅子の調整をしているあいつを横目で見た。白い横顔、輝くような金色の髪、少し青白い肌が
艶めかしく感じる。
おまえはどう見ても女だ。おれが愛しくて、この腕に抱き留めたくなるほど、おまえは女なんだよ。
その感情を押し殺して、おれは何事もないように振る舞うしかなかった。
「ロマンスなら、そらで弾けるよ《
少しこわばったような顔でおれに言うおまえ。
目くばせで合図をして奏でる。
ピアノとヴァイオリン。すんだ空気の中、お互いを引き立て合うようにつま弾かれる。
初めてだった、おまえをヴァイオリンを合わせるのは。おまえのピアノはこんなにも繊細で穏やかだったんだ。
イザークとは違って、おれに寄り添うように奏でてくる。一つ一つの音を大切に愛おしむようにおれに寄り添っ
てくれる。
おまえの心がそこにあるようだ。
おれはヴァイオリンを置いて、あいつの後ろに回った。
えっというようにピアノを弾く手を止めたが、おれが弾くように言った。
「そのまま……続けて……《
あいつの目を両手で覆ったまま言った。
ユリウスの手が鍵盤を探すように空を舞う。
「ドイツはいい、この空気の中でヴァイオリンは望みうる最高の音を出してさえわたる……《
おれは思いのたけを込めて話した。あいつはロシアに帰らなければいいと言う。
そうだ、そうできるなら、このままおまえとと共にヴァイオリンを奏でていたい。音楽にどっぷりとつかり、思
いのままに奏でていられたらどんなに幸せだろう。
だが、それはできない。おれは祖国に帰らなければならない。
「ああ……そうできれば。けれど、祖国だ《
おれの言葉にあいつは
「手をどけろよ!! 顔を見せてよ! それは真実本心なのか?!《
自分の目を覆うおれの手をつかみ、核心をついてきた。
おまえはいつもそうだ、物事の本質をおれにぶつけてくる。まっすぐな心と言葉で。
おれの手を外そうともがくが、おれも顔を見られたくなくて両手を離そうとしない。このままおまえの体温を感
じていたい。なにより、泣いている顔を見られたくなかった。
ふと、あいつの身体から力が抜けた。あいつの両目に置いた手のひらに冷たいものが伝ってくる。
おれと同じように涙を流していた。
おまえの心とおれの心が共鳴する。
行かないでと叫ぶおまえの思いがおれを揺さぶる。おまえを泣かせてばかりだ、おれは。
両手をゆっくりと離し、そのまま後ろから抱きしめた。金色の髪に顔をうずめおまえの香りを鼻孔の奥まで吸っ
た。
「……そんなにも……そんなにもロシアは君をよぶのか……?《
嗚咽をくり返しながら絞り出すように訴えてくる。
「ア……ルラウネとなら……一緒に、死ねるのか……《
「ばかたれ、誰が死ぬと言った《
おれの腕を振りほどき、椅子をけるように立ち上がって叫ぶ。
「じゃあ、……じゃあ、ぼくを連れて行ってよ!!《
「女には無理だ《
「アルラウネだって女だ!《
一瞬、空気が静まり返る。
ピンと張りつめたように向かい合って立ち尽くす。
言葉を切ったのはあいつだ。
大きな瞳をさらに見開いて、いつから?と問いかけてくる。同じセリフを繰り返す。
おれの言葉に思考回路が停止したようだ。そうだろうな、まさかおれがおまえの本当の姿を知っているとは思っ
てもいなかっただろう。必死になって、神経をすり減らしながら、懸命に隠していたんだから。
だが、おれにとっておまえは間違いなく女だ。
「いつから……?《
おまえの問いかけに応えず、抱きしめた。縋り付くようにおれにもたれかかってくる。
こんなにも華奢で頼りなげなおまえを置いていかなければならないのか。
おれの吊を何度も呼びながら、いやいやとするように首を横に振る。
行かないで、とおまえの心の叫びが聞こえる。
嗚咽を繰り返すおまえの身体を離し、その瞳を見つめた。
いつもは凛とした表情をしているのに、今は涙でほほを濡らし、唇を震わせていた。
身体を引き寄せ、その唇に重ねた。おまえはおれに身を任せ、身体を預けてきた。
何度かその柔らかい唇をついばみ、白いほほを両手で包んだ。
「ク……ラウ……ス……《
わずかな隙間からおまえの声が聞こえる。
「黙って……《
そう呟くともう一度重ね、今度は深く口づけた。身体をこわばらせ、おれのシャツを強くつかんでくる。
躊躇うことなくおれはこいつの歯列を割り、舌をからませる。ぎこちなくではあるがおれに応えようとしてき
た。顔の角度を何度も変え、身体をさらに引き寄せた。
わずかだが胸のふくらみを感じる
ユリウスを抱きしめながら、もう一つ別の人生があるのかもしれない……一瞬、そんな思いが脳裏をよぎった。
「連れて行って……どんなことだってする……《
絞り出すように懇願するおまえの言葉におれは頷き、ああと返事をした。
その言葉にこいつの顔がパッと明るくなる。
涙を流しながら、何度も何度も確認するかのように、置いていかないねと尋ねてきた。
おれはその度に、頷き、ああと返事をする。連れていくことなど、到底かなわない。だが、こいつのひたむきな
思いをここで否定することはできなかった。
おれ自身、もう一つの別の人生を一瞬、考えたのだから。
兄貴を忘れ、祖国を捨て、仲間を忘れてもいいと、こいつを腕に抱いたままの人生をほんの一瞬思った。
激しかった感情が落ち着いてきた。
何度も、こいつの髪を撫でつけ金色の髪にキスを繰り返した。
「さあ、遅くなった。お茶を飲んで休め《
おれの言葉を素直にきくおまえ。
その顔は女そのものだった。どれだけ神経を張りつめてきたのかと思うと、切なかった。
温かい紅茶を淹れると、おまえは優雅にそれを飲んでいった。
カウチに二人で腰を掛け、言葉を交わすことなくお互いのぬくもりを確かめる。身体を寄せ合い、指をからませ
時折見つめ合う。
そのうち、おまえがゆっくりと瞼を閉じ、おれにもたれかかってきた。
静かな寝息を立てて、おれの胸に顔を寄せる。
さっきの紅茶に睡眠薬を入れた。
こいつを連れて帰ったとき、アルラウネから渡されたものだ。そして、一言「彼女と最後のひと時を過ごせばい
いわ《と。
わかっている、おれは帰らなければならない。
眠りに落ちたこいつを抱き上げ、客間のある二階に向かった。
なんて軽い。それなりに上背があるこいつだが、思っていたよりも軽かった。
客間のベッドに横たえ、上着と靴を脱がせ、上掛けを掛けようとしたとき、こいつの白い首筋が目に入ってき
た。
ベッドの端に腰を下ろし、乱れた髪を直してやる。
ほんのりと上気したほほ。紅い唇。陶器の様に滑らかな肌。金糸を束ねたような輝く髪。いまは閉じているが、
時折碧に見える瞳。
もう一度、その唇に自分のを重ねた。
そのまま、ほほ、耳朶、首筋にと唇を這わせていると自然に片手でこいつのボウタイをほどいていた。
真珠の様に輝く胸元が視界に入ってくる。
おれのことなど、忘れた方がいい。いなかった男なんだと思ってくれ。
そう思い込もうとすればするほど、胸がかきむしられる。
こいつの胸元を少し広げ、唇を押し当てた。マグマの様に押し上げて来る感情を押し殺し、顔を離した。
そこには紅い花びらが落ちていた。おれが落とした花びら。時がたてば消えるが、おまえに初めて落としたのは
このおれだ。
こいつの胸元をもとに戻し、ボウタイを結ぶとほほにキスを落とした。
思いのたけを込めて。
屋敷の中を走り回り、探したがもぬけの殻だった。
残されていた御者の男が言うにはアルラウネ嬢とクラウスは、昨夜のうちに使用人全員に暇を出してすぐ出発し
たのだという。
自分は、ぼくをレーゲンスブルクまで送るために残っていたのだと。
ずっとぼくだけの心に仕舞っていた。女だと知られてはならないから。それでも彼を思い続け、ここまで追って
きた。
会えば思いとどまってくれるかもしれないという、儚い望みを抱えて。
どこかで無駄だと思っていたけれど。
彼は、ぼくが女だと気づいていた。いつからかはわからないけれど。
抱きしめられたとき、激しい口づけを受けたとき、彼の思いがぼくの身体を突き抜けた。
彼もまた、ぼくを愛してくれていた。
だからこそ、連れて行ってと言ったのに。なんでもするから、力になれるよう努力するからって言ったけれど、
それはできないことだったんだ。
分かっていたけれど。
家に帰ると、かあさんが泣きながら出迎えてくれた。ごめん、心配かけて。マリア・バルバラ姉さまも呆れたよ
うにため息をついたけれど、その目は赤く充血していた。
執事から、かあさんと姉さまは心配して寝ずに夜を過ごしたと聞いた。
ぼくには、まだ気に掛けてくれる家族がいる、友人がいる。やらなければならないこともある。
午後から学校に行くために着替えた。鏡の前でシャツをはだけた時、思いがけないものが目に飛び込んできた。
白い胸元に残されたしるし。
慌てて部屋に鍵をかけ、カーテンを閉じた。
もう一度鏡の前で胸元を見る。
紅いしるしを指でなぞる。そこだけ熱い。これを落としたのは彼だ。
一気に涙があふれる。
クラウス、クラウス、クラウス!
しるしに両手を当て、彼を抱きしめるようにしゃがみこんだ。
ぼくは、なにがあっても忘れない。
忘れないよ。