|


スイス ローザンヌ、今は5月。美しいレマン湖の畔の町ウシー、そこの小高い丘の家にミハイロフ一
家は住んでいます。
一人娘 ミーナは、今は薪も綺麗に片付けられた 暖炉の前のソファーに座り縫い物をしています。
ミーナは裁縫がとても苦手。お料理もお洗濯もお掃除も大好き。でも、ピアノ、バイオリンを演奏する
為針がとても怖いのです。“ 大切な指を傷付けたらどうしよう…。” いつもドキドキでした。
そんな時本棚で見付けた『日本の手仕事』という本 ! パラパラ頁をめくると不思議で可愛い小物が一
杯。“ 作ってみたい。” 先ず 最初、『刺し子のナプキン』に挑戦する事になりました。
「痛い ! 」針が指を直撃。台所で野菜を洗っていたユリウスは慌てて駆け付け「大丈夫?」声をかけます。
お母さんのユリウスは色々あり 少し前まで声が出ずお話が出来ませんでした。でも!昨年の8月、 3人
で行ったウィーン旅行。そして お家に帰った後、少しずつ声が戻って来たのです。今では 小さく囁く
様にお話が出来る様になりました。
「貸してごらん、指、血は出てない。小さい穴がプチっ”もう痛くないよ。」優しく撫でてくれました。
「ミーナ、指ぬきしてないね。こうやって、これを填めるとチクチクチク 真っ直ぐに綺麗な縫い目で素
早く縫える。」
ユリウスはミーナの中指にそれを填め 両手を添え 一緒に布を引っ張りました。
「二人でやってみよう。はしっこに真っ直ぐ針を入れ、中指を曲げ糸の付いている反対の方を指ぬきヘ。
行くよ。肩の力を抜いて チクチクチク 下絵に沿って真っ直ぐに チクチクチク。そうっと、針と糸を引
っ張ると・・・ほら ! 綺麗な縫い目。」
「ほんと。早くて 綺麗で 怖くなかった。指ぬき凄い。お母さんとすれば バッチリね。」
「一人でも 慣れれば大丈夫。ゆっくりね。」
「はい、見てて。」ミーナはリズムに乗って。「速さはテヌートで、チクチクね。」
スーッと、糸を引っ張りました。
「上手、楽しいね。」 「うん。」 「今日はここまで。おやつにしよう。」
木苺とカスタードが挟まったホットケーキを頂きました。
「お母さん 疲れたね。二人で歌わない ? いつもの様に。」
「賛成。ミーナがピアノ伴奏とソプラノ。ぼ・・・」ユリウスは続きの言葉を飲み込みます。
「えっ、何 ? 」
「お母さんがアルトを歌うね。」 「やっぱり 今日も言った。謎の言葉 『 ぼ・・・』 」
ユリウスは遠い昔の ゼバス時代、美しく高い声の ソロソプラノを担当していました。聖歌隊でも歌った
美声の持ち主。でも…水銀の水蒸気で声を潰し、ベルリンヘ誘き出され首を絞められ声帯が傷付きソプ
ラノの高音が出なくなってしまったのです。
でも その事、ミーナは気になりません。声が戻って来たから それだけが嬉しくて。
でも・・・今 一番気になるのは
”『ぼ・・・』“ その続きはなんなの ? どうして いいかえるの ?
お母さんとお話する時、時々出てくる『ぼ・・・』
お父さんのアレクセイに今夜 聞いてみる事にしました。
二人になって そっと 尋ねてみると。
「プーッ。」吹き出し 「クックック ケッケッケ。」変な笑い方 イヤーな目付きで
「お父さんはその続き知ってるぞ。だがな、直接ユリウスの口から聞く方が面白い。ミーナ作戦開始だ! 」
ユリウスが大切に使っているスカーフをぶら下げ 居間へ。
「何だ。こんなのが 玄関に落ちていた。誰のだぁ〜 ? 」
ユリウスは振り向き 少し考え 右手をあげ 「ハイ。」返事をして そのスカーフを取り上げ寝室へなお
しに行きました。
アレクセイは「プーッ〜 ! クックック ケッケッケ ! 相手は手強いぞ、ミーナ。作戦失敗だ ! 」
ミーナは軽蔑の目で 「お父さん、私よりお子様ね。それに 下品 もう、相談しない。」
その後、一日。アレクセイは 二人から無視。言葉をかけてもらえませんでした。
そして 次の朝。「昨日はすまない ミーナ。お父さん、この作戦から下りる事にした。」敗北宣言をし
ました。
でも、ミーナの頭は謎が膨らみます。
そんなある日 通っているウシー女学院の国語の時間、フランス語のエマ先生が
「今日はこれから作文を書いてもらいます。題は『私のお母さん』 自由に今 思っている大好きなお母さ
んの事を書いて。」
次の日曜日 お母さんの参観日ね ! 先生が皆の作文から三つ 全員に聞いて貰いたい作品を選び 当日、
それを読んでもらいます。張り切ってね ! 」
ミーナはガッツポーズ。
「よーし。選ばれる様 書くわ。そして、私の今の気持ちお母さんに伝えよう。」
作文用紙に向かいました。
そして 参観日当日になりました。 エマ先生が
「お母さん。5月の爽やかな季節になりました。 娘さん達がお母さんの事を作文に書いて下さいました。
全員に読んで貰いたいのですが、今日はその中から 3人選びました。聞いて下さい。
先ず、ミーナ ミハイロワ。」
「はい。」
ミーナは元気に立ち上がり エマ先生から受け取った作文用紙を広げ読み上げます。
『私のお母さん』
ミーナ ミハイロワ
私はお母さんが大好き。綺麗で 優しくて お父さんととても仲良し !
そして、声。小さいけれど 囁く様に そっと 私の耳に響きます。
お母さんの喉が傷付いているからです。
私は、一生懸命 耳を澄まして聞きます。
でも・・・。
最近、とても 気になる事が。
『ぼ・・・』です。この言葉の続きがありません。
『ぼ・・・』お母さんは続きの言葉を飲み込みます。 私が 『えっ ? 』と
尋ねると、『お母さん・・・』って 言い替えるのです。
お父さんに尋ねると、変な顔で 嫌な笑い方をします。
お友達に聞いても 『さぁ〜 ? 』
私は気になって、考えました。思いました。
それはきっと ! 結婚して 赤ちゃんが出来て お母さんになったら、使ってはならない言葉なんだと。
私も、大人になったらわかるかな ?
教室の中に しばらく、静寂が広がります。
そして、後ろの方から 『クスクスクス ほほほッ』笑い声が。でも… アレクセイの様な嫌な感じでは
ありません。それは 拍手に変わっていきました。『パチパチパチ ! 』暖かい拍手。生徒の皆も先生も。
教室が拍手で一杯 !
ミーナはそっと振り返り、ユリウスを捜します。でも、お母さんは下を向き 身体を震わせていました。
お隣の ミーナの親友マリーのおば様に背中をさすってもらっています。
『どうしよう 。』思ったとたん、エマ先生が隣に。「授業が終わったら直ぐ 職員室に来てね。」
その後、授業が続きます。 残り、2人の生徒が作文を読み上げます。心温まる内容でした。
エマ先生は、今は亡き 自分のお母さんのお話も聞かせてくれました。
そして 最後に
「他の 皆さんの作文も、とても素晴らしかったです。順番に少しずつ読んでもらいますね。今日はここ
までにしましょう。」
授業が終り、ミーナは直ぐに 職員室のエマ先生の所へ
「大丈夫。貴方なら きっと、乗り越えられる。」
ミーナに今日の作文を手渡しました。 ミーナは大切に鞄に入れ、ユリウスの待つ 教室へ。
帰り道 ミーナはお母さんから 一言も声をかけてもらえませんでした。お家に帰ってからも ずーっと。
でも お父さんの時の様に怒っているのではなさそう。
シャワーを済ませ 「おやすみ」お部屋へ
窓際の勉強机、お母さんに作ってもらった花柄のカーテンを引き ライトを点け ゆっくり考えます。
お母さんの昔々を少しずつ。
何となく 分かって来た様な 『ぼ・・・』の秘密。
何とかしよう。私の気持ちをわかってもらおう。ミーナは決意します。
作文用紙を広げ ペンを取りました。
次の日。
職員室へ。 エマ先生は作文の続きを何度も読み返してくれています。
“ あぁ 神様。お願いします。
『ぼ・・・』の続きが『く』でありません様に。
そして、お母さんが自分の事を 『わたし』と、
呼べる日が来ます様に。
私の願いを叶えて下さい。
アーメン
ミーナ ”
エマ先生は、「作文 完成しましたね。今夜、お母さんに『寝る前に 必ず、一人で読んで下さい。』そ
う言って、お渡しなさい。」
「ただいまぁ。」ミーナの元気な声に「おかえり ! 」いつものお母さんの声。ユリウスはもうすっかり
立ち直っている様子。二人は 普段と同じ一日を過ごしました。
そして、夜。「おやすみ」の後に エマ先生に言われた通りに封筒を渡しました。
次の朝。ミーナはいつものバイオリン早朝練習5時30分よりも30分早く5時に目を覚ましてしまい、こっ
そり居間へ。・・・と !
何やら 洗面台より、呟き声が。「あっ、お母さん。」ユリウスは鏡に向かい『ブツブツ』
「わたしに貸してごらん。」「わたしと一緒にやってみよう。」「わたし。」「わたし。」
ミーナは「あぁ、神様ありがとう。お母さんの口から『わたし』が聞けた。手を合わせ心の中でお礼を
伝えます。
そっと 洗面台を覗くと ユリウスのお顔は 耳まで真っ赤。
「恥ずかしい。恥ずかしい。やっぱり 人前では言えない。」手で顔を被い、嫌々をしています。
ミーナは心の中で 「いいよ。お母さん、無理しないで。」
その夜 夫婦の寝室、ベットの中。
ユリウスは隣でくつろぐ アレクセイに報告します。ミハイロフ家では 秘密はなし。
「少しずつ 女性らしい言葉が話せる様、一人こっそり練習するんだ。」
「おぉ ! 無理するな。俺の前だけなら 昔の様に『ぼく』って、自分を呼んでいいんだぞ。」
「その言葉は 『二度と使わない。』と誓ったんだ。自分に ! 女性として暮らし 母親になり ミーナの
お陰でドレスを着る楽しさが分かって来た今。自分を表現する言葉も変えていかないとね。でも 君の前
では『わ』の付く言葉は言わない。笑って からかうに決まっているからね。」
「バカたれが。好きにしろ。」 「ごめんね。」 「そんな お前が可愛い。食べてしまいたい。」そして、
深夜遅くまで。アレクセイは優しく 激しく ユリウスを愛したのでした。
その 週末の土曜日。綺麗に薪を片付けられた暖炉の前では ダーヴィドがくつろいでフィガロの日刊紙
を読んでいます。
ミーナは台所の端に作られた 小さな作業机で花瓶にお花を苦労しながら生けています。いくらやっても
上手くいかない。周りはびちゃびちゃ。とうとう「痛い ! 」アンドレに頂いた薔薇の棘が指を襲います。
驚いたユリウスはすぐさまミーナの所へ「大丈夫。血は出てないよ。」そして大きく深呼吸 ! 息を整え。
「わたしに 貸してごらん。」
ミーナのお顔は 喜び一杯 ! 思わず目線をソファーでくつろぐおじさんの方へ ダーヴィドは後ろ向きの
まま 何度も頷いています。
そんな事に気付かないユリウスはほんのりピンクに頬を染め
「ほらね。もう 机がびちゃびちゃ ! 全部 机の端の洗面台へ。 机を綺麗に拭いて。
フィガロの古新聞、ふきんを用意 それから、じょうろにお水。」
「はい。」
「ふきんを机の真ん中に。両端に古新聞。花瓶の水は捨てて綺麗に拭いて ふきんの上に。右の古新聞に
葉っぱ 左の古新聞にお花を分けて置いて。ここまでが準備。やってごらん。」
「はい。」
「じょうろで花瓶の半分水を入れ、最初に生けるのは葉っぱだけ。花瓶より少し長目に長さを揃えて、重
なってるの 裏向けのは 切ってしまってスッキリ散髪。やってごらん。」
「はい。」
「最後が お花。短いの 長いの色々あっていいよ。刺を切って 余分な葉っぱも切って。形を整えながら
センスよく 静かに葉っぱの間に差して。」
「はい。ピアニッシモでね。」
「花瓶の中を見て、足らないお水を足して 出来上がり。」
「はい。」ミーナのお顔は大満足。
「後は、お母さんが片付けておくから。 お花をダーヴィドのテーブルへ飾って ミーナ。」
「はい。ダーヴィドおじさん、テーブルのクロース、レースのと変えるね。暖炉の隣のチェストの引き出
しにレースのクロースがあるの。好きなの選んで。」
「ほいほい。」
ダーヴィドは楽しそうに1枚選んで テーブルに掛けました。ミーナは花瓶をその上に…
その時。
うしろから。
ユリウスの微かな 微かな 鼻歌が。2人の耳に響きました。
幸せそうな 楽しそうな 小さく響く鼻歌・・・
ソファーの2人は聞こえない振りを。
「ダーヴィドおじさん、ネクタイずれてる。」
ミーナはダーヴィドのネクタイをギュッと、締めます。
深い緑色に 小さな薔薇の蕾の模様が。ユリウスの手作りです。 アレクセイとイザークもお揃い。ユー
ベルは蝶ネクタイ。 そして、今日ミーナが履いている ギャザーたっぷりのスカートも同じ模様。全て、
ユリウスの手作り。 残りの布で三角のストールを2枚。マリアお姉さまと自分用に。周りを長目にフリ
ンジに ! ちょっと 難しいこの作業。縦糸の束をひとまとめ 均等な幅に結びます。結ぶ糸の量を一定に
ミーナもお手伝いして 綺麗に仕上がりました。
ダーヴィドおじさんと1日遅れで 明日来てくれるマリアお姉さまと二人お揃いで着ける予定です。
ダーヴィドおじさんは季節の変わり目に別荘ヘ来てくれます。 今年はお庭の鈴蘭の開花に合わせ5月。
そして、今夜はお父さんのアレクセイに許してもらっている2人で過ごす夜更かしの日です。
「楽しみね。」「うん。」
そして 夜。
ユリウスとアレクセイは夕食後、早々と寝室へ引き上げて行きました。
居間には ミーナとダーヴィドおじさんの二人。
暖炉にはアレクセイが少し入れてくれた薪に火がついて お部屋は ほんわか暖か。
「今日の飲み物は ロシアンティーよ。」 「お ! 本場仕込みだ。」 二人は台所へ。
「おじさん。お湯が沸騰してるから かまどの火を止めます。これは必ず二人で確かめあって。火を点け
る時も 消す時も。おじさん 中 見て、火 消えた ? 」 「うん。いいよ。」
ミーナは静かにポットを温め、そして それをカップへ。
ダーヴィドは茶葉を入れます。「ニルギリか ! 」熱湯を入れ、ティーコゼーを。
ミーナはカップをくるくる回し お湯を捨て。
お茶の用意が出来ました。 ダーヴィドがテーブルへ運びます。
「暖炉の火 優しく燃えてる。 お父さんが暖炉のお掃除も 今日は薪の用意もしてくれたの。冷蔵庫を冷
やす氷も昨日、買って来てくれたし。お家のお手伝い沢山してくれるのよ。最近。何だか、お母さんの
ゴマ擦ってるみたい。」
「家族サービスか。」
二人並んで座ります。ミーナは出来上がったばかりの真っ白な刺し子の刺繍入りナプキンをダーヴィド
と自分の膝へ。
「緑のがおじさん 赤いのがマリアおばさんにプレゼント。おばさんの、私借りよ。」
小皿に用意したウォッカに混ぜたジャムを口へ 続いて紅茶を飲みます。
「あぁ 美味しいね。美味しいね。」 「嬉しい。」
ミーナは口の周りをナプキンで拭きます。
「おっ、舌で舐めなくなった。レディーになったね。」
「クスッ ! お父さんも最近 紳士よ。」
「相変わらずの 仲良し 父娘だ。」
「おばさんのプレゼント 汚しちゃった。」
「洗濯すればいいよ。おじさんのもね。」ダーヴィドも口元を綺麗に拭きました。
ミーナが座るのは いつもダーヴィドの右側 。おじさんの右手を自分の左手の掌に乗せ、その上に自分
の右手を。『すーっ すーっ』 二人の夜更かしの始まりの合図。
「今夜のお話は、私がします。」 「あぁ。そうだと 思っていた。楽しみだ。」
「お母さんの謎の言葉 “ ぼ・・・の事件 ”です。去年8月にお母さんは声が戻り少しずつお話が出来る
様になりました。おじさんも秋に来てくれた時 大喜びだったでしょ。
でも…、それが始まったのは 今年の2月からなのよ。私がお庭でスノードロップを切っていたら … !
『ミーナ 温かくしないと“ ぼ・・・ ”』その後の言葉を飲み込んでしまってむせているの ! 私『え
っ? 』って。そしたらお母さん 言い直したの。
『お母さんのショール かけなさい。』 ほら ベルリンの病院でお父さんからプレゼントされたあのショ
ールをかけてくれたの。」
8歳にしては 少し大人びた ダーヴィドの愛する姪 ミーナのお話は続きます。
少しずつ“ ぼ・・・”の出て来る回数が増えていき ミーナの頭は疑問で一杯。何故 何故 何故 !次は
何 ?
お父さんに聞いて お母さんを傷付け。
作文に書いて聞いてもらい お母さんの心には 何かの決意が。
完成した作文を渡し お母さんの一生懸命の姿を見て、そして 今日を迎えた事。
ゆっくり ゆっくり 報告しました。
ダーヴィドは口を挟まず 静かに そして 幸せそうに聞いてくれました。
ミーナはおじさんの右手を膝へ戻します。
それが お話の終りの合図。
「ミーナ。
ユリウスの秘密を詮索する事なく
女性らしい言葉へ 導いてくれて ありがとね。」
大好きなおじさんから 最高の誉め言葉をもらい ミーナはダーヴィドの耳元ヘ“ チュッ ! ”お礼を呟
きました。
「やっぱり。ダーヴィドおじさんは、本物の大人よ ! 」
おしまいです。
ミーナより

|
|