すずらんに寄せて
An dem Maigloeckchen


第1話




                                                                             作:亜琉野(arno)様

  すずらんの甘やかな香りがアレクセイの奏でるヴァイオリンの調べと響き合いこの小さな部屋を満たしている。
ユリウスは幸福感に浸りながらうっすらと浮かんだ涙をそっと拭った。
アレクセイがシベリアから帰ってきて二度目のすずらんの季節を迎えることが出来た喜び。
そして、以前のようには動かぬ指で紡ぎだす一音一音はレーゲンスブルクやモスクワで聴いたものとは比べることは出来
ないが、アレクセイが身体の奥深くから絞り出す音はあの頃よりもユリウスの心に響いてくる。
アレクセイの演奏する「すずらんに寄せて」と副題のついたヴァイオリン・ソナタはアレクセイが獄中で書いたものであ
る。
「エウリディケに捧ぐ」と書き添えられた楽譜が亡き兄の親友によって届けられた時の驚きと喜びは昨日のことのように
鮮明に思い出すことが出来る。
その楽譜は私たち親子の希望となり、宝物となった。

すずらんはアレクセイの両親の愛の花であり、私たちにとっては不滅の愛の花。
お婆様の計らいで逃れたモスクワでアレクセイと再会し、私が罪を乗り越え女性としての新たな人生を送るよすがとして
贈ってくれた花。
再会した時はすずらんの季節は過ぎてしまっていたので、アレクセイは小さなすずらんが散りばめられた可愛らしい木綿
のドレスを婚約のために贈ってくれた。
婚約の記念にそのドレスを着てアレクセイと一緒に写真を撮った後で
「本物のすずらんは来年の5月に贈るから楽しみに待っていてくれ!!」と言ったのに…
その約束を果たせずアレクセイはシベリア送りとなってしまった。

すずらんの咲く翌年の5月、アレクセイと同じ亜麻色の髪、私と同じ青い瞳の男の子が生まれた。
息子の誕生から、誕生日ごとにあのすずらんのドレスを着て、すずらんを手にして息子と共に写真を撮ってきた。
すずらんの花言葉に「希望」があり、女性から男性に贈ると「純愛」の証しとなることを知った。
息子の誕生を知らぬアレクセイが帰って来た時に、知りえなかった息子の成長を辿ることが出来るように。
私が手にするすずらんは、遠く離れたシベリアにいるアレクセイに贈る愛の証し。
写真は2枚、3枚と増えていくが、アレクセイの消息が分かるはずもなく不安に駆られる頃届けられた楽譜であった。



明日はお婆様の家でアレクセイと息子のヴァイオリン、私のピアノでこの曲を演奏することになっている。            
いつも仕事に追われているので、ピアノの練習もままならない。
明日は何とか時間をつくって早目に行って練習をしないと、二人の演奏の足を引っ張ることだけはしたくはない。
でも今はそのことを考えるのはやめて、アレクセイの奏でる音色に身を預けよう…