なつ様
「暴れるな、ユリウス!」
「だって、足がつかない!ぼく泳げないんだ」
ユリウスはクラウスに必死でしがみついた。
ユリウスは水遊びをしたことがなかった。だから必然的に彼女は泳げない。地面に足が着かないのは彼女にとって
大きな恐怖だった。ほぼパニック状態の彼女をクラウスは何とか落ち着かせようと声をかけるが、その声は彼女の
耳には届いていなかった。
――まったく…!泳げないなら、なんで自分からボートを転覆させるんだ?
クラウスは呆れながらも、必死でしがみついて来る彼女が愛おしいと思った。
「落ち着け、ユリウス。大人しくおれに掴まっていれば大丈夫だ。このまま岸まで連れて行くから」
「うん」
ユリウスの声は震えていた。
やっと彼女がおとなしくクラウスに掴まってその身を預けてきたので、その後は落ち着いて岸まで行くことができ
た。
岸に着き浮力の解けた体は、水分を含んだ衣服の重さと相まって、余計に重く感じられた。
その重さに負け、よろけそうになるユリウスの身体を、クラウスは咄嗟に右腕で彼女の身体を支えた。
「はなせよ!大丈夫だから」
あわてて彼の身体を両手で押しのけようとした時、さらに彼の右腕に力が込められた。
「泳げないくせに暴れるなよ。こっちまで溺れるところだったぜ」
「ごめん。もう大丈夫だから、はなしてよ」
クラウスはユリウスを離した。お互いにずぶ濡れだった。ユリウスの髪から雫が落ちる。その雫が太陽の光を纏っ
て、ほんの一瞬きらきらと輝き地面に落ちるのをクラウスはぼんやりと眺めていた。
くしゅん!
ユリウスがくしゃみをした。
クラウスはユリウスの手を取って歩き始めた。
「どこに行くんだ?」
「寄宿舎だ。そのまま帰る訳にはいかんだろう?」
「いいよ。家で着替えるから」
「ばかたれ!このまま帰るつもりか!? 風邪をひいて2,3日寝込むのがオチだ! 少しは上級生の言うことを
聞け!」
「……、うん」
ユリウスはクラウスの後を、おとなしくついて行った。
寄宿舎のクラウスの部屋は、以前ユリウスが訪れた時よりも男の匂いがした。
クラウスはクローゼットの中から制服を出した。
「おれが4年生の時に来ていた制服だ。お前には少し大きいかも知れんが、一番小さいのはこれしかない」
ユリウスは素直に受け取った。
「ありがとう。あ……の……」
彼女の少し戸惑った様子に気付いたクラウスは、さり気なく彼女を気づかった。素早く自分の着替えを手にし、ド
アから出る時、不自然にならないようにユリウスに声をかけた。
「隣の住人のから、何か飲み物をかっぱらって来る。ゆっくり着替えてろよ」
「うん」
ドアが閉まる音がした。大急ぎで着替えを手にし、濡れた上着を脱いだ。
ブラウスが濡れた素肌にはり付き、身体の線が露わになっていた。
ふと、机の上に置いてある鏡に自分の姿を映した。本当の自分の姿。同じ机の隅に写真があった。クラウスと彼の
兄が一緒に写っている。それが彼の本当の姿、アレクセイ・ミハイロフだった。
――こんな形でお互いの本当の姿をさらけ出すことになるなんて……。
ユリウスは複雑な表情をして、小さくため息をついた。
濡れたブラウスを脱ぎ、乾いたタオルで急いで水分をふき取り、彼の制服を身につけていく。
クラウスが言っていた通り、彼が14歳の時に着ていた制服は彼女には大きすぎた。
袖丈も身幅も大きく、ぶかぶかだった。けれどクラウスの匂いがした。
ドアをノックする音が聞こえた。
「はい、どうぞ」とユリウスは答えながら、“自分の部屋なのに”と少しおかしくなった。クラウスなりに気を使
っているのだろうと思ったら余計におかしい。普段の彼はそういう性格ではなかったからだ。
左手にカップを持ちながらクラウスは部屋に入ってきた。クラウスはカップをユリウスに渡した。
「ありがとう。君は飲まないの?」
「おれは後で一人、ウォッカを飲むさ」
カップの中の温かい飲み物は、彼女の心と身体を温めた。ほっと一息つく。
「髪、まだ濡れているぞ。しっかり乾かさないと風邪ひくぞ」
そう言いながら、彼女の背後にまわり、クラウスは彼女の髪をふき始めた。
「いいよ、自分でできる」
慌てて彼を止めようとしたが、クラウスは手を止めなかった。ユリウスはこの時になって初めて、自分が上着を着
ていなかったことに気がついた。
――しまった!
そう思ったが、今のこの状況で上着を羽織ることはできない。
バレてしまったらどうしよう……、という気持ちとは裏腹に、心の奥底には「知って欲しい」という願望があるこ
とを彼女は自覚していた。気を緩めてしまったら、何もかも告白してしまいそうで、ユリウスは両手を強く握りし
めた。
「だいぶ伸びてきたな、髪の毛」
「短い方が楽だったよ」
クラウスが、長い髪の方が好きなことを知っていて、わざと憎まれ口をたたいた。
クラウスはユリウスの髪をくちゃくちゃとかき混ぜ、笑いながら言った。
「腰まで伸ばせよ」
――けど、おまえの髪が伸びる頃、おれはもうドイツにはいない……。
そう思った瞬間、クラウスは途轍もない喪失感に襲われた。
先ほどのボートでの会話を思い出す。
「初雪が降るころ、多分おれはアレクセイ・ミハイロフに戻るだろう」
ユリウスに告げると同時に、自分自身を納得させるための言葉だった。もう、音楽学校の生徒であるクラウス・ゾ
ンマーシュミットとも、今、目の前にいる運命の恋人とも決別しなければならない。
別れは現実味を帯びてきた。その現実を認めた今、ユリウスを抱きたいという、自分では押さえきれない激しい衝
動を憶えた。若さゆえの身勝手な欲望に身を任せそうになる。
後ろからユリウスを強く抱きしめた。彼の腕が微かに、彼女の柔らかなふくらみを感じた。
ユリウスは急に抱きしめられた衝撃が大きく、彼が何を感じているかを考える余裕がなかった。
「クラウス……」
ユリウスは小さく彼の名を呼んだ後、何も言わずに身をあずけた。
しばらく二人だけの時間が流れた。何の音も色もない二人だけの世界。
それが数分だったのか、ほんの数秒だったのか……。
わずかに開いていた窓から風が吹き込み、カーテンが揺れた。日差しが入り込み、机の上に置いてある鏡に反射し
て光が二人に当たった。
ユリウスもクラウスもその光の眩しさに目を瞑った。
「眩しい」
手で反射を遮りながら、ユリウスが言った。
「あぁ……」
クラウスはユリウスを抱いていた腕の力を緩めた。
ユリウスはクラウスの方に体を向け、一瞬だけ彼の眼を見た。あとは俯きがちに言った。
「ありがとう。この服、しばらく借りるね」
「ああ。どうせもう着ないから、返さなくてもいいぜ。おまえにやるよ」
「ぼくは、もうこれ以上身長が伸びそうにないから、これを着るのは無理。ちゃんと返すよ」
「そうか……」
「うん……」
さっきまでの感情の波が、静かに引いていくのをクラウスは感じた。ユリウスと話していると、少しずつ感情が落
ち着いて来るのがわかる。
「送っていこう」
クラウスの優しい言葉が嬉しかった。
――今日は母さんが家にいる。またクラウスに送ってもらったら、何か感づかれてしまわないだろうか?母さんに
はこの気持ちを知られたくない。
「大丈夫、一人で帰れるよ。ありがとう」
「そうか……。じゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん、また明日ね」
「おう」
ユリウスはドアに向かって歩き出した。不意に机の上の鏡に目をやった。
そこには聖ゼバスチアンの制服を着た男子学生の自分がいた。
―これでいい、これでいいんだ。
ユリウスは鏡に写る自分に寂しい微笑みを残し、彼の部屋を後にした。