作:胡ぼん様

          まどろむように、うつらうつらと浅い眠りの中、ゆっくりと瞼を挙げた。
時計を見なくても夜が明けたことは、習慣で理解できている。いつのころからか、記憶にないが、朝の目覚めの
時間は一定していた。
 ふと、隣から聞こえてくる声に頭を起こした。
「・・・っ・・・く」
こらえるような、苦痛を押し殺したような声に完全に目が覚めた。
「・・・・・!」
背を向けたたくましい肩が震えていた。
ゆっくりと身体を起こして、覗き込んだ。亜麻色の髪が顔にかかっている。
「・・・・アレクセイ・・・」
声をかけてみるが、隣の男は苦痛にゆがむ顔を上げない。
「大丈夫?痛むの?」
ベッドから降りて、まわりこみそっと髪に触れた。それでもきつく目を閉じたままだ。
サイドテーブルに置いている水差しからグラスに水を注いで、もう一度声をかけてみる。
「アレクセイ」
「・・・っつ・・・」
「おきれる?」
汗に張り付いた髪を指でかき上げると、うっすらと目を開いた。鳶色の瞳がぼんやりと見つめてくる。
「・・・・大丈夫・・だ」
脂汗をにじませながら、かすかにほほ笑んだ。
「お水、・・・飲む?」
「あ・・ああ・・・」
身体を起こそうとするが、傷の痛みで思うようにいかない。熱っぽいのかだるさがある。
「ユリウス・・」
「なに?」
華奢なユリウスが、体格のいいアレクセイの体を支えるように起こした。背中にピローを当てて、安定させる。
痛みが落ち着いたのか、アレクセイは大きく息を吐いた。
ユリウスが差し出したグラスに唇を当てて、水を一口含んだ。正直、水を飲みにも痛みは走る。肩とわきに銃弾を
受けていた。
「痛み止め、飲む?」
「いや、・・・いらん・・・」
「でも、辛そうだよ」
碧がかった瞳が、心配そうにのぞき込んだ。
「まだ、我慢できる」
「がまんすることじゃないよ。辛いなら、辛いって・・・・」
「シベリアに比べりゃ、なんてことない」
口元は笑おうとしているが、額には汗がにじんでいる。
「もう」
頑固だなと思った。
このご時世、薬はかなりの貴重品だ。いざというときに置いておきたいと思うのはわかるが、苦痛にゆがむアレク
セイをみると、少しでも楽にしてやりたいと思うのは当然だった。
ユリウスの白い手が伸びてきて、タオルで汗を抜くってくれた。
「ユリウス」
「なに?」
名を呼ばれ、鳶色の瞳を見た。
「すまない・・・な」
「けが人は余計なこと考えなくていいよ」
ユリウスはその手をアレクセイの額に当てた。
「熱があるよ。冷やしたほうがいいね」
立ち上がろうとするユリウスの手を取ったアレクセイが引き寄せ、胸に抱きとめた。
「!・・・アレクセイ」
「しばらく、このままで」
「・・・ん」
耳を当てた胸から、アレクセイの心臓の音が聞こえる。
昨夜、アレクセイの部屋に初めて連れてこられた。預けられていたズボフスキーの自宅で、憲兵の捜索によって彼
の妻であるガリーナが殺された。
憲兵に襲われた彼女は、床下にいたユリウスを発見されないように声を殺して、暴行を受けおなかの子どもととも
に命を落としてしまったのだった。
 アレクセイの部屋で、彼の介抱をしながら、話を聞かされた。
ドイツに亡命していたアレクセイがロシアに帰国するとき、一緒に連れていくと約束したのに、置いてきぼりにし
たこと。命がけでロシアまで追いかけてきたユリウスを突き放したこと。流刑にされたシベリアでのこと。そこで
思い起こすのは、いつもユリウスのこと。生きることを諦めそうになっている自分を励まし、奮い立たせてくれた
同志たちの力で脱獄できたこと。
盟友だったミハイルの心中事件で、ユリウスに向き合うことができなくなった自分を再びユリウスを受け入れるこ
とができたのはガリーナの愛とズボフスキーの言葉だったこと。
自分たちは、本当に大いなる愛情の中で生きていること。それを忘れることなく、生きていかなければならないこ
と。
骨がきしむくらいに、抱きしめられている中で聞かされていた。
アレクセイに抱きしめられている中で、おぼろげに、以前にもこんなぬくもりに委ねたことがあったような気がし
た。
記憶をなくしていても、心が覚えているようだった。
 ここにいてもいいの?あなたのそばにいてもいいの?
何度も問いかけていた。
「もう、離さない、決して」
アレクセイの言葉が心にしみた。
 ここにいてもいいんだね。あなたのそばに。
「・・・・くっ・・・・」
また、痛みがぶり返したのか、アレクセイが苦悶の声を出した。
「アレクセイ、大丈夫?」
白い手をアレクセイのほほにあてた。
「・・・ああ・・」
ほほに添えられた手を握り、目を閉じた。
「少し眠ったほうがいいよ。眠れる?」
「ああ・・・」
力なく答えると、目を閉じ、体を横たえた。
銃創は二か所。いずれも弾は貫通したものと、かすったものだったから、傷自体は重いものではない。それでも銃
創は熱を出しやすく、化膿しやすい。幸い季節が冬のため、化膿はしにくいようだが、発熱だけは避けようがない。
ズボフスキーが解熱剤と痛み止めを渡してくれているのだが、アレクセイはそれを飲もうとはしない。我慢できる
ものなら、耐えようと思っているようだった。
 ユリウスは、自分の唇を彼の唇にそっと重ねた。
「!ユリウス」
「おまじない。あなたがぐっすり眠れるように」
驚くアレクセイに、ほころぶように微笑んだ。
「ゆっくり休んで。僕はずっとそばにいるから」
その言葉に安心したかのように、アレクセイはゆっくりと目を閉じた。



 
  アレクセイが目を覚ました時には、ずいぶんと日が高くなっていた。                                      
相変わらず、傷は疼くように痛む。身体も熱っぽい。起き上がろうとするが、力が入らなかった。
「・・・・って・・・」
ふと見ると、隣にいたはずのユリウスがいなかった。
「アレクセイ、おきた?」
ひょこんと白い顔がのぞいた。長い金の髪を束ね、輝くような笑顔を向けてきた。
近づくとベッドに腰を掛け、アレクセイの額に手を当てた。
「まだ熱があるね。何か食べられる?」
食欲はなかったが、食べないことには体力の回復はないし、傷の治りも遅くなる。
「スープを作ったんだけど、少しでも食べて」
「お前が・・・?」
「うん、ガリーナに教わったの。食材が少ないから大変だけど」
はにかんだように微笑んで、トレイに乗せた皿を運んできた。
有り合わせの材料で作ったのだろう。少し濁ったスープに野菜が浮いていた。料理などしたことのないはずのユリ
ウスが、懸命に作ったのだろう。
スプーンですくって口に運ぶ。少し味は薄いが、美味い。スープの皿の隣には黒パンが置いている。ユリウスがパ
ンをちぎって、スープに浸すとアレクセイの口に運ぶ。
「・・・美味しい?」
心配そうな表情で聞くユリウスが愛おしかった。
「ああ、美味いよ」
「よかった。料理なんてしたことなかったから。ガリーナに教えてもらってなかったら、作れなかったよ」
少し目を伏せて俯いた。その表情があまりに儚げで、愛おしさがこみあげきた。
「料理なんて慣れだ。一番大事なスパイスは何か、知っているか?」
「・・・ううん、知らない」
「愛情だよ、心を込めて作ること」
「・・・そうなの?」
「ああ、俺のおふくろがそう言っていた。心を籠めて作る料理はどんな高級な食材より美味いってな」 
「あなたの・・・お母様?」
「俺のおふくろは、正式な妻になれる身分じゃなかった。それでも親父はおふくろのもとに通った。ペテルブルグ
からトボリスクまで毎月のように。親父が来るたびに、おふくろは心のこもった手料理をテーブルに並べていた。
貴族の食卓に並ぶようなものじゃなかったけどな」
懐かしそうに微笑むアレクセイをじっと見つめた。
「親父が美味そうに食べる姿を、おふくろは微笑みながら見ていた。俺の家庭の原点だったと思う」
出されたスープとパンを平らげ、アレクセイはユリウスを見つめた。
そっと手を出し、ユリウスのほほに触れた。
「アレクセイ・・・」
「これからは、おまえと」
ほほに添えられてアレクセイの手をそっと握った。
温かい、心が安らぐ。記憶をなくしてから、ずっと不安で、恐怖におびえていた。それが、こんなにも安らぐもの
だろうか。ユスーポフ家では決して得ることのできないものだった。
 ユスーポフ侯爵をはじめ、ヴェーラやリュドミールはとても心を配ってくれた。使用人たちもユリウスを丁重に
扱ってくれた。それでも、記憶をなくし、自分の存在意義を見出せず、生きる気力が萎えてくると、精神的に不安
定になりやすかった。
 それが、アレクセイと再会してからは、吹雪におびえることはあっても、以前のような不安定さはなくなってき
ていた。
「どうした?」
黙りこくっているユリウスにアレクセイが声をかけた。
「あ・・・ううん、なんでもない」
俯きながら首を横に振って、アレクセイの手にほほを摺り寄せた。
 昔のユリウスはこんな風にほほ笑むことはなかった。性を偽り、男として生きていた。女だとばれないように、
神経を張りつめ、ともすれば、からかう相手に本気で向かって行っていた。
その一方で、一途に自分への感情を隠すことなくぶつけてくることもあった。休暇が明けても、学校へもどらなか
ったアレクセイがようやく戻ったとき、ユリウスは涙をポロポロこぼして「心配したんだ」と、心ごとぶつかって
きていた。
学校を辞めロシアに帰ろうとしたときも、危険を顧みず馬で汽車を追いかけ「次の駅でまっているから!!!」と
叫んだ。ミュンヘンの屋敷で、「連れて行って」とすがった。
そんな激しい一面は影を潜め、今では陽炎のようにたたずみ、アレクセイを見つめている。それなのに一途に見つ
める瞳は15歳のころと何ら変わりはない。
 ユリウスの顔を引き寄せ、ゆっくりと唇を重ねた。昨夜は、肩をつかんで引き寄せようとすると、躊躇うように
肩を震わせていたのだが。
今は、身体を預けることこそしないが、躊躇ってもいない。
びくんと、ユリウスの肩が揺れる。アレクセイのシャツをつかみ、身体を固くする。
 その時、アパートのドアがノックされた。
とっさに離れる二人。
規則正しい、合図のようなノックの音。
慌ててベッドから降りようとしたユリウスをアレクセイが止めた。
「アレクセイ?」
「俺がでる。ここにいろ」
「でも・・・・」
彼の瞳は、さっきとは打って変わって険しい色を帯びている。ユリウスの知らない目をしている。
言われたとおりに、ベッドから離れず腰を掛けていると、痛みに耐えるように顔をしかめたアレクセイが、よろめ
く足で玄関のドアの前まで歩いて行った。
 ゆっくりとドアを開け、外に立っている男の顔を認め、アレクセイはほっとした表情をした。
「イワノフ・・・」
同志の一人、アレクサンドル・イワノフだった。
「大丈夫か?かなりのけがをしたと聞いたぞ」
緊張の糸がほぐれる。
するりと室内に入ったイワノフは少しばかりの食料を持ってきていた。
「ああ、銃弾を二発くらっちまった。2〜3日休ませてもらっていいか?」
壁にもたれながら言った。痛みと発熱でめまいがする。
「熱がでているだろう?誰かよこそうか?」
「いや・・・いい。寝ていれば治まるさ。それより・・・」
「わかっているさ。中央委員会には報告しておく。ともかく、ゆっくり休め」
「頼む・・・」
脂汗がにじんできた。痛みが襲う。息が上がってきた。
イワノフが帰ると、ドアを閉めたアレクセイはズルズルとへたり込んだ。
「・・・・ふう・・・・」
傷が疼き目を閉じた。動けばいっそう痛みが襲ってくる。
「アレクセイ・・・・!」
ドアのしまる音を聞いて、ユリウスが駆け寄ってきた。
「大丈夫?ベッドに行ける?」
「・・・・ユ・・・リ・・・・」
「しゃべらなくていいから。立てる?」                                 
  背が高く、体格のいいアレクセイを担ぐように立たせると、どうにかベッドに運んだ。上掛けを掛けながら、汗に
張り付いた髪をよけるようにタオルを当てた。
ふと見ると、包帯に血が滲んでいる。
「包帯を取り換えるね。その前にお水、飲む?」
「ああ・・・」
グラスに水を入れ、アレクセイの口に含ませた。薬を持ってきて、汚れた包帯を取り換え、薬を塗る。
シャツも脱がせて、身体を清拭した。
「ユリウス」
「なに?」
「手際がいいな」
「そう?ガリーナに教えてもらったんだよ」
アレクセイの身体を拭きながら答えた。
「短い間だったけど、いろんなことを教えてくれた。お料理、掃除、洗濯、けがの手当て・・・とか」
「おまえが?」
「そうだよ。だれがするの」
「・・・いや」
あそこにいたら・・・と、言いそうになったのを飲み込んだ。大貴族ユスーポフ家、あの家にいたら料理をするこ
とはおろか、その手を水仕事で荒らすこともない。再会したユリウスの身なりを見ればわかる。
 元々、アーレンスマイヤ家の跡取りとして生活していたのだから、家事などしたことがないはずだ。ロシアに来
てから8年、貴族の家で生活をしていれば、そんなことを覚える必要はない。
それが、家事をこなし、自分の身の回りの世話から、すべてにおいてユリウスはこなさなければならない。
 ユリウスを手離したくないと思いながら、厳しい生活に引き込んだことが良かったのかと思ってしまう。
「辛くなんかないよ」
アレクセイの思いを見透かしたように顔を上げてほほ笑んだ。
「楽しいって言ったら変だけど、たった2日だけど、今のほうが生きてるって感じがするんだ」
「なぜ?」
「ユスーポフ家では・・・」
躊躇うように言った後、言葉を飲み込んだ。レオニードのことを話すと、アレクセイが極端な反応をすることはわ
かっていたから、口ごもってしまった。
「ユスーポフ家ではどうした?言ってみろ、かまわない」
アレクセイを見つめて、言葉をつないだ。
「あの家では、何も不自由しなかった。部屋も暖かくて、食事も贅沢で。辛い待遇だと感じたことはなかったんだ。
でも、生きている気がしなかった。記憶をなくして、自分が何者かわからなくて、思い出そうとしても割れるよう
に頭が痛くなって。レオニードは焦ることはないって言ってくれたけど、生きている意味を知りたかった。どうし
てロシアに来たのか、僕は何者なのか。どうして男の格好をしているのか。考えれば考えるほど、深みにはまって
抜け出せなくなっていく自分にいらだって」
俯いたままシーツを握りしめた。
「いらだつことにも疲れて、無気力になった。食べることも眠ることも、ともすれば息をすることも面倒になって
いた。何のために生きているのかわからなくなって、どうでもよくなって・・・」
声が震えていた。心の奥底に溜め込んでいたものが溢れそうになっていることをアレクセイは感じた。
「ユリウス、もういい」
顔を上げた彼女の瞳はおびえた色をしていた。
「すまない、辛いことを話させてしまった」
ユリウスは強く首を横に振った。
「聞いてほしかった。誰かに聞いてほしかったんだ。どうしようもなく、抜け出せなくなった気持ちをきいてほし
かったの」
見る間に瞳に涙があふれてきた。
「だって・・・あの家の人たちは、みんな僕に気を使って大切にしてくれた。でも、誰も僕がこんな風に思ってい
るなんて感じていなかったと思う。僕も話そうとしなかったし、話せなかった・・・」
傷の痛みを忘れて、アレクセイはユリウスを抱きしめた。
「もういいと言っただろう。俺は・・・・」
「アレクセイ・・・・」
「おまえがいればいい、それだけでいい。おまえが笑ってくれていればそれでいい」
「アレクセイ・・・!」
縋り付くように抱き付いてくるユリウスを抱きしめ、アレクセイは思った。

お前がいればいい、俺にはおまえがそばにいてくれるだけで、それでいい。
ミュンヘンでのあの日、振り切るようにおまえを置いてきた。
ペテルブルグで再開したあの日、必死の思いで追いかけてきたおまえを突き放した。
流されたシベリアでの過酷な日々、思ったのはおまえのことだった。
そのおまえが俺の腕の中にいる。そばにいてくれている。
たとえ、昔のことを覚えていなくても、俺をまっすぐに見つめる瞳は変わっていない。
ユリウス、愛している。やっと、おまえを抱きしめることができた。それだけでいい。




Ende