なつ様
その日、外が明るくなってもユリウスはベッドから起き上がれないでいた。ここ2〜3日で急に冷え込み、その気
温の変化に身体がついていかなかったのである。熱があるせいで身体がだるい。朝の買い物も、とても行けそうに
なかった。
ただ一つラッキーだったのは、アレクセイが仕事で忙しく、ここ数日留守だったことである。彼が居たらきっとす
ごく心配するだろう。忙しい彼をこんな事で煩わせたくなかった。
ユリウスはベッドで横になりながら、窓から外を眺めた。他の建物の陰になり、空も景色も殆ど遮られてしまうこ
の裏通りのアパート。
アレクセイが毎日帰って来る訳では無かった。それでもここは二人の住処、生活の場所であり安息の場所だった。
1度は目が覚めたものの熱のせいもあり、ユリウスはうとうとし始めた。
カタカタ、コトコト音がする。その物音でユリウスは目を覚ました。自分たちのアパートと似たような場所。しか
し、窓から見える風景、目に入る文字などから、ユリウスはここがロシアでは無い事を認識した。台所からいい匂
いがする。ドレス姿の女性が、台所で何かを作っているのが目に入った。
―あれは誰?ぼくはどうしてここにいるの?
後ろ姿で顔は見えない。自分と同じ金色の髪、どちらかといえば小柄で華奢な女性だった。
女性はドイツ語で何か話しかけている。彼女が話しているのはドイツ語であることは分かっているのに、何を話し
ているか具体的には分からない。でもとても優しくて、とても懐かしい声。女性がぼくに近づき、ぼくの手をとっ
た。優しく包み込むように握りしめてくれる。女性の顔を見ようとした瞬間、ぼくは彼女に抱きしめられた。暖か
くて柔らかい彼女の感触が心地よかった。「ずっとこうしていて欲しい」そう思った。
ユリウスは浅い眠りから目が覚めた。ふと自分の頬に手をやると、頬が涙でぬれている事に気がついた。
あの女性は誰だったのだろう?抱きしめられた時の懐かしい感触、懐かしい香り、アレクセイと居る時とは違う安
らぎがあった。温かい何かで心が満たされていた。
ユリウスは自分で自分を抱きしめた。夢の中の女性がしてくれたように。
温かい。アレクセイ以外にもぼくをこんな風に抱きしめてくれた人が居たんだ・・・。
その時ドアのカギが開いてアレクセイが帰って来た。自分を抱きしめ泣いている彼女に驚いたアレクセイが声をか
ける。
「どうした?何かあったのか?」
「なんでもないよ。懐かしい夢を見たの。女のひとに抱きしめられた夢。ドイツ語で何か話していた。ドイツにい
た頃の事はぼくには記憶はないけれど、その人がぼくにとって大切な人だったかなって思ったら、つい・・・」
「そうか、その女性(ひと)はお前の母さんだったのかもな・・・。いい夢見たな」
アレクセイはそう言って優しい瞳でぼくを見つめた。
「かあさん・・・」小さくドイツ語でつぶやいた。
その直後、ユリウスはアレクセイの大きな温かい胸に抱きしめられ、母の感触と夫の感触と同時に味わっている錯
覚に陥りそうになった。
彼の腕の中で小さな声で呟く。
「Danke schoen」
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