なつ様
−1918年春
長い会議からようやく解放され、凝り固まった身体をほぐすように、春の街を足早に歩いた。
夜遅くまで明るくなり始めたこの季節。
街にはこの季節を楽しむ人々が、明るい夜を楽しんでいた。そんな光景を横目で見ながら、おれは家路を急いでい
た。どうしても日づけが変わる前に、家に着きたかったからである。
暖かい風を頬に感じながら、おれはユリウスと一緒になった頃を思い出した。
−1913年春
部屋のドアを開けると、ユリウスは家事の手を止めておれに飛びついて来た。
「おかえりなさい!」
「ああ、今帰ったぜ」
まだ一緒になって間もない時期だった。だからまだ、お互いに少しぎごち無さが残るものの、おれにとってこの瞬
間が一番心が安らぐ時間だ。
おれの腕の中にいるあたたかな存在。
お互いの存在を確かめ合うかのように口づけを交わす。
彼女の肩越しに、おれが数日前に贈ったすずらんがテーブルの上に咲いているのが見えた。
「まだ咲いていたんだな、すずらん・・・」
「うん。毎日お水を変えているし、それにあなたから貰った大切なお花だから・・・」
「そうか」
ユリウスの頬が少し赤くなっているのが分かった。愛おしさがこみ上げ、さらに腕に力を込める。
「苦しいよ、アレクセイ」
「ああ、悪い悪い」
そう言っておれはユリウスを離した。
おれを見つめるまっすぐな瞳。記憶を失う前となんら変わらない瞳。
記憶を失った後も、失う以前と変わらないおれへの愛情。
帰宅すれば、その愛情と喜びを全身で表現してくれる。おれにとってもお前は唯一無二の存在。お前の存在そのも
のがおれの安らぎだ。
「ねえ、あのお花が枯れてしまったら、また新しいすずらんを買ってくれるの?」
「残念ながらお前に花を贈るのは、1年に1回さ」
「え〜!?じゃあもっと手入れして、長持ちさせなくちゃ!」
ユリウスはそう言いながら、屈託のない笑顔を見せた。
彼女の言葉通り、すずらんはしばらく枯れずに我が家の食卓に飾られていた。
路からアパートを見上げると、3階の窓には明かりが灯されていた。それを見て、おれの心も明るくなった。
アパートの階段を一気に駆け上がり、鍵を開けた。満面の笑みを浮かべた妻がおれを迎えてくれる。
「おかえりなさい」
「ああ、今帰ったぜ」
いつものようにユリウスの頬にただいまのキスをする。
懐にそっと忍ばせたすずらんの花。その記念のすずらんを手渡すと、幸せに満ちた顔をおれに向けてくれた。
「ありがとう。嬉しいよ」
彼女の表情はいつもおれに幸せと安らぎを与えてくれる。
何年経とうと変わらない彼女への想い。
「今日はもう寝てしまったよ」
寝室の奥を覗きこんだおれに、ユリウスは小声で言った。
「そうだろうな・・・。もうこんな時間だからな」
ユリウスの肩に手を回し、今度は二人一緒に寝室を覗いた。おれたちの視線の先には、ベビーベッドでスヤスヤ眠
る天使のような赤ん坊がいた。
昨年生まれたこの大切な存在は、ユリウスと共におれに大きな安らぎを与えてくれる、おれの大切な家族だ。
帰る家がある。待っていてくれる人がいる。
この春の陽だまりのように暖かな家族の温もりを、おれは生涯をかけて守っていきたい。
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