作:亜琉野(arno)様
「おーい、マクシム。そんなに走ると発作を起こすぞ!!」
「大丈夫だよ、アレクセイ!!早く来ないと僕がすずらんを先に摘んじゃうよ」
嬉々として前を走るマクシムの背から、心配げな顔を後ろに向けたアレクセイは「そんなに走らないでとママからも注
意してよ!!」と応援を求めた。
亜麻色の髪と鳶色の瞳をもつ美しい母親は、ラファエロが描く聖母のような微笑みをたたえながら優しく息子に答える。
「大丈夫よ、アレクセイ。マクシムはもう苦しむことはないわ」
母の思いがけない答えにアレクセイは喜ぶ前に怪訝に思いながら「本当に?」と問いかけると、母は先程と同じこの上
ない微笑みを浮かべ頷いた。
だが、アレクセイが愛してやまないその美しい笑顔が陽炎のようにおぼろげになり消えていこうとする。
思わず「ママ、行かないで!!」と叫んだ。
「大丈夫?アレクセイ!」
目を覚ますと、ユリウスが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
(そうだ。俺は5度目の結婚記念日のためにユリウスに会いにやってきていたんだ。裏庭のすずらんの咲くあの場所で
ユリウスと会ってから久しぶりに二人だけの時間を過ごし、祖母を交えて三人で昼食を取ったあと居間のソファでユリ
ウスと話しているうちに眠ってしまったらしい)
「ああ、大丈夫だ。夢を見ていた」
「子供のときの夢?」
アレクセイはギクッとして、「ママ!!」と叫んだ声を聞かれたのではと思うとバツが悪く「ああ」とぶっきら棒に答
え話題を変えようとする。
「折角の記念日なのに眠ってしまって悪かったな」
「謝ることないよ。徹夜明けなのに無理して来てくれて嬉しかったよ。本当にありがとう!!」
久しぶりにアレクセイの寝顔も見ることもできた上に、「ママ!!」と叫ぶ声を初めて聞くことができてアレクセイの
過去を垣間見た気がして、ユリウスは幸福感に満たされていた。
もうすぐ母となる妻が幸福そうに微笑む姿に、夢の中の母の笑顔を重ねて胸が熱くなり、ユリウスを抱き寄せ優しく口
づける。
「ねえ。アレクセイが子供のときの夢を見たのは、僕が隣でこの絵を見ていたからじゃない?」
ユリウスは傍らにあった古い子供がパステルで描いた絵を差し出した。
ユリウスの手からその絵を奪い取るように受け取ると、「この絵はどうしたんた!!」と詰め寄った。
「この木箱に入っていたんだよ。納戸の奥に仕舞い込まれていたのを僕が見つけたんだ」
ユリウスが得意げに足元にある木箱を指し示すと、アレクセイは信じられない思いで木箱の蓋をあけた。
中から出てきたのはアレクセイがトボリスクから持ってきた懐かしい品の数々であった。
母が作ってくれた服や揃えてくれた文具、父が贈ってくれたお気に入りのおもちゃ、それにマクシムが使っていたあの
パステルなど一つ一つを手に取り、トボリスクで過ごした幼い頃を思い出しながら感慨深げにアレクセイは言葉を発した。
「捨てられていたとずっと思っていたものなんだ!!」
「おばあ様から聞いたよ。この邸に来たばかりの頃これらを眺めてばかりいたんでしょ。あなたが全然なついてくれな
いし、トボリスクのことを忘れてここでの生活に早く馴染んで欲しくておばあ様は取り上げてしまったそうだよ」
高価な布地ではないが一針一針丁寧に縫われたブラウスやズボン、贅沢なつくりではないが美しい色柄の紙ばさみや筆
箱など母親のマリアの愛情が溢れたそれらの品々を、同じく息子を持っていたヴァシリーサは捨てられなかったのである。
召使いやアレクセイには悔しさのためマリアを貶すことを言ってしまっていたが、質素ではあるがマリアの趣味の良さ
を物語る品々は、改めて彼女を選んだ息子の目の確かさを思い知らされ、その出自や世間体のために彼女を認められな
かったことを後悔することも度々あった。
「でもね。おばあ様はいつかあなたに返そうと思っていたけれど、きまりが悪くて返しそびれたままになってしまって
いたんだよ。おばあ様に『今度アレクセイが来たときに返してください』とお願いすると『今さら私からは返しにくい
からおまえから返しておやり』と言われたの。おばあ様って可愛いところがあるよね」
ユリウスは俺の顔を見ながら、クスッと笑った。
(そうだったのか……)
祖母の大きな愛に胸が熱くなる。
そして、自分が心とは裏腹の行動をとってしまうのは祖母からの遺伝のように思えてきて、口元に笑みを浮かべるアレ
クセイだった。
そのアレクセイの表情を見て、アレクセイが来たら話そうと思っていた願い事をユリウスはためらいがちに切り出した。
その願い事とは、アレクセイの子供時代を語ってもらうことであった。
過去を思い出したくとも思い出せない自分を思いやって、一緒に暮らし始める前にアレクセイは『俺たちに過去は必要
ない』と言ってくれた。
その言葉がどんなに嬉しかったことか!!
過去に関係なく、今の自分を愛すると言ってくれたのだ!!
アレクセイはその言葉通り自分の過去についても殆ど話をしなくなったし、革命の闘士であるアレクセイと暮らすには、
生きている一瞬一瞬を大切にして、未来に向かって共に歩んで行けばよいとユリウスも思っていた。
しかし、その思いはこの邸に来て、自分に新たな生命が宿ったことを知ってから徐々に変わっていった。
ヴァシリーサとオークネフから幼い日のアレクセイのことを聞き、大切に保管されていた思い出の品々を手に取ると当
時のアレクセイの姿を思い描くことが出来て、それがとても楽しくて時を経つのも忘れてしまう程だった。
何しろ納戸も納屋もアレクセイと亡くなった兄のドミートリィの所縁の品で溢れており、ヴァシリーサは時おり使用人
たちに隠れてそれらの品々を手に取っては、行方不明となっている孫と亡くなってしまった孫の思い出に浸っていたの
である。
過去から現在へ、そして未来に続く生命の繋がりを、今まさに自分自身の身体で実感しているユリウスは、このお腹の
中の子が生まれてきたら、僕の知らないアレクセイの幼年時代や少年時代のこと、おばあ様のこと、亡くなってしまっ
たアレクセイの両親やドミートリィ兄様のことを話して聞かせたいと願わずにはいられなくなっていた。
ユリウスがその願いをアレクセイに告げると、自分に向けられた真剣な眼差しをむげにすることが出来なくて、アレク
セイは拒むことはせずに危惧していたことを尋ねるだけにした。
「もし子供におまえの過去のことを聞かれたらどう答えるんだ?」
「正直に話すよ。僕は昔のことを忘れてしまったけれど、アレクセイを愛したこと、優しい母親がいたこと、音楽学校
でたくさんの友達がいたことはちゃんと覚えているから、それで充分なんだよと教えてあげるよ。だって、僕がすべて
を思い出したら今の幸福が音を立てて崩れていきそうで怖いんだ。だから、僕の空白の過去はあなたの過去を共有する
ことで埋められているから幸福なんだと言ってあげるよ」
微笑みながら美しい青い瞳を涙で潤ませる妻を、お腹の子と共に包み込むようにそっと抱きしめた。
アレクセイの胸に顔をうずめながら、(ああ、この腕の中が僕の安息の地なんだ!!)と実感できて、ユリウスはこの
幸福がいつまでも続くことを願わずにはいられなかった。
ユリウスのぬくもりとそこに息づく新しい生命を感じながら、心の中でユリウスに語りかける。
(俺の冷酷な言葉がおまえの記憶を奪ったかもしれないのに、俺を気遣うおまえのいじらしさがこの上なく愛しい。お
まえの思い出したくない過去を忘れさせることができたとしたら、おまえの記憶を殆ど失わせたことの許しとなるだろ
うか。俺の過去を分かち合うことでおまえの過去の空白を埋めることができるのなら、おまえの知りたいことを話して
やろう)
そう言えば、トボリスクでは母は父の子供時代の話をよくしてくれた。
孤児で修道院で育った母にはつらいことの多い子供時代であったのだろう。
母が自分のことを話すのは、殆どミハイロフ邸で父と出会ってからのことばかりで、それも自分のことよりも父のこと
が多かった。
父から聞いた子供時代の話を俺に聞かせたのは、年に2、3回しか会えない父のことを忘れずにいてほしいという願いも
あっただろうが、父の話をしていた時の母はとても幸福な様子で、俺はそんな母を見るのが大好きだった。
それで、離れていても父のことを身近に感じ、実際に父と会うと母の話した通りの人でますます父のことを好きになっ
ていった。
ユリウスも母と同じように幼いわが子に不在がちの父親のことを話すことで子供に父親の存在を認識させ、夫の思い出
を子供と分かち合うことでお互いの淋しさを紛らわすことがしたいのだろうか…
俺を見つめるユリウスの真剣な瞳に、故郷のトボリスクで眺めていた澄み切った青い空が重なり、懐かしい思いに駆ら
れる。
妻の光り輝く髪を右手で優しく梳きながら、左手を膨らんだお腹に当てた。
「おまえが望むのならお安い御用だ!俺の子供の頃の話をしてやるぜ。なあ、ユリウス。俺からも頼みがあるんだ」
思いがけないアレクセイの申し出に少し緊張しながら、ユリウスはアレクセイの次の言葉を待った。
「これからのロシアの行方は増々混迷を極めるだろう。ユリウス、すまんが、この子が生まれても、俺は今まで以上に
留守がちになってしまうかもしれない。だから、この子が父親のことを忘れないように俺の話をしてやってくれ!!俺
のことを忘れられたら立ち直れないほどのショックだから、ユリウス、よろしく頼むぜ!!」
アレクセイは片目をつぶってニヤッと笑う。
冗談めかしての言葉の中にアレクセイの変わらぬ深い愛を感じて、ユリウスの心は温かさで満たされていく。
(ああ、僕はアレクセイの言葉と笑顔に何度も救われたことか……)
すると、アレクセイが思い出語りの口火を切った。
「じゃあ、まずこの絵のことから話してやろう。これは俺の幼馴染で親友であったマクシムが描いた絵で……」
明るい5月の陽の光が思い出語りをするアレクセイと、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてるユリウスを優しく包み
こむ昼下がりであった。
ふたりの足元には親友のマクシムを偲んで名づけられた愛犬が陽だまりの中で幸福そうに眠っている。
そして、ユリウスがその日の朝に裏庭で摘んだ数輪のすずらんは小さなヴェネチアン・グラスの花瓶に、アレクセイが
生まれてくる子供のために市場で買った花束のすずらんは大きなマイセン磁器の花瓶に活けられ、サイドテーブルに置
かれていた。
まるで親友のマクシムと母親のマリアがふたり(と一匹)の幸福を祝福するかのように芳香を放っている。