「魂の共鳴」


1.はじまり
                                                                         作:亜琉野(arno)様

                          「いってらっしゃい。初日だからあまり無理をしないでね」
「分かってるぜ。それよりも俺が帰るまでむやみにドアを開けるんじゃないぞ。じゃ、行ってくる」
アパートの入り口でアレクセイはユリウスの頬にキスをして出掛けて行く。その広い背中が街角に消えるまで、ユ
リウスは見送っている。
アレクセイとユリウスが一緒に暮らし始めてから10日が経ち、アレクセイの傷もかなり回復し、待ち切れないかの
ようにこの日から仕事に復帰したのである。
二人だけのちょっとぎこちない生活を一日一日と重ねていく喜びを味わうとともに、ユリウスの心には我が身とお
腹の子を犠牲にしてまで自分を救ってくれたガリーナに対する感謝も日々募っていく。


ガリーナは一週間前に町はずれにある共同墓地に葬られた。                                                
ガリーナの死のショックから立ち直れないでいるユリウスと、銃弾は貫通していたがその後発熱して寝込んでいる
アレクセイには知らせずに、埋葬を済ませてからズボフスキーが二人のアパートにやって来た。
ガリーナの埋葬を知らされたユリウスはガリーナを救えなかったことをひたすらズボフスキーに謝るのであった。
「ユリウス、あれは君のせいではないんだよ。憲兵は家宅捜索を3、4人で行うから君が気づいたとしてもガリー
ナを救えなかったし、君も犠牲になっていただろう。ユリウス、君はガリーナの同志だ。憲兵の餌食となることが
分かっているのに同志を巻き添えにはできない。それは革命家も革命家の妻も同じことだ。だから俺はガリーナを
誇りに思う。君とアレクセイが一緒になって幸福になることをガリーナも俺も願っていた。だから君はアレクセイ
と幸福になっていいんだよ。それから、これをガリーナの形見として受け取って欲しい」
ズボフスキーはガリーナがユリウスのために仕立て直していたドレスを差し出した。
「ドレスを着たことがないなんておかしな人」と笑いながら針を運んでいたガリーナの姿が昨日のことのように思
い出され、大粒の涙がユリウスの頬を伝ってゆく。
ズボフスキーの言葉があの夜アレクセイが言ってくれた「生き残った者たちは生命の限りに生き続けねばならない」
と響き合い、ユリウスの胸を打つ。
(僕はまだガリーナの同志としてふさわしくないことは僕自身がよく分かっている。でも、僕は頑張るから―僕も
ガリーナみたいな夫の誇りとなる革命家の妻になれるように見守ってね)
ドレスを手にしながら心の中のガリーナに語りかけた。

謝罪と感謝そしてアレクセイが仕事に復帰する報告も兼ねて、昨日二人で初めてガリーナのお墓参りをした。
深い雪に足を取られながらもアレクセイに手を引かれ、どうにか「ガリーナ並びにフョードルとガリーナの子、こ
こに眠る」と小さな自然石に彫られた墓石の前にたどり着いた。
自分の生命にはこの二人の生命も吹き込まれていることを実感したユリウスは改めて二人の分まで強く生きていこ
うと決心した。
そしてアレクセイは感謝とともにユリウスと二人で生きていくことの重みを改めて感じるのだった。


アレクセイを見送って一人になると、ズボフスキーのところでガリーナから手ほどきを受けた家事に精を出す。  
いつかアレクセイと一緒に暮らせるためにとガリーナは家事のあれこれを教えてくれたが、覚えている限り家事な
どしたことのないユリウスにとってはうまく出来るはずもなかった。
自分の記憶が戻らないうえにアレクセイの足が遠のいていくに従い、アレクセイと一緒に暮らせる日などやって来
るはずはないと思われ身の入らないこともあったので、なかなか上達しなかった。
しかし、時間がかかっても今どうにか家事が出来るのはガリーナの教えの賜物であった。

家事が一段落すると、ガリーナの形見のドレスをテーブルの上に広げ、以前ガリーナと語り合ったようにアレクセ
イのこと、自分のこと、家事のことなどを姿の見えないガリーナに心の中で語りかける。
ガリーナのようにしっかりと家を守り安らぎの場を夫に与え、この国の実情を知り、夫の思想を理解し、傍らに寄
り添って共に歩んでいきたいと切望するユリウス。
形見の品の前ではなく、出来ることなら毎日でもガリーナの墓前で語り合いたいユリウスであるが、まだアパート
の近くの外出しか出来ない身では、この冬の季節に一人で町はずれまで出掛けるのは危険で許されないことである。
春になる頃には外出にも慣れて一人でも墓参が出来るように頑張るからとガリーナに誓う。


ユリウスが初めて自分の留守宅を守っているのが気が気ではなく、負傷明けを理由にアレクセイは一人でいた時で
は考えられないほど早く帰宅の途に着いた。
「今帰ったぞ!」と言いながら鍵を開けて中に入るとユリウスは居間にはいなかったが、台所から物音がするので
行ってみると手を粉だらけにしたユリウスがいた。
「ただいま」とアレクセイは朝と同じように頬にキスをする。
「おかえりなさい。ずいぶん早いんだね。まだ夕食まで時間があるからお茶でも飲む?」
ユリウスは粉がつかないように気遣いながらそのキスを嬉しそうに受ける。
「お茶はいらないよ。持ち帰った資料を読むから慌てることはないぞ」
アレクセイの言葉にほっとしながらも、早目に支度を始めたつもりだったが想定外の帰宅の早さに内心は焦るユリ
ウスであった。

居間で資料を読みながらも、「ああ…」とか「やっちゃった!!」という言葉が耳に入ってくる。
かれこれ一時間以上経つが、夕食の出来る気配が全く感じられず心配になりアレクセイは台所を覗いてみた。
そこには、この日食材を買う前に古本屋で探し求めた料理本とにらめっこしながら悪戦苦闘するユリウスがいた。
「手伝おうか…?」
「ううん、大丈夫。もう少しで出来るから居間で待っていてね!」
「おう、分かったぜ!!」
ユリウスが真剣な表情で訴えかけるので、早く帰ってきたことがあだになったことを悟ったアレクセイは空腹を我
慢してもユリウスにとことん付き合う覚悟をした。
今までは間に合わなくなると手伝ってもらっていたのだが、アレクセイが仕事に復帰した今日からは自分一人で家
事をやろうとユリウスは決心していたのである。

ユリウスの奮闘もむなしく食卓に並んだ料理は結果が伴っていなかった。
仕事復帰を祝ってガリーナがよく作ってくれたカトリェータ(ロシア風カツレツ)に挑戦してみたが、うまく揚が
らず焦げてしまっていたし、付け合せのジャガイモも形がくずれていた。
折角のめでたい日の料理を台無しにしてしまったので、ユリウスは余りにも自分が情けなく思えてひたすら悲しか
った。
思わず涙がこみ上げてきたが、ここで泣いたらアレクセイにふさわしい革命家の妻にはなれないと思いぐっと涙を
こらえていた。
そんなユリウスを前にしてアレクセイは何事もなかったかのように食べ始め、焦げたカトリェータもくずれたジャ
ガイモも全く気にせずにパクパクと次から次へと口に運んでいく。
その姿にユリウスはあっけにとられてしまい、涙はどこかにいってしまっていた。
「ユリウス、 初めからうまく出来る奴なんていないぞ。 失敗することで人間は成長するんだ。 だから心配する
な!!」
その言葉に救われて、ただただ感謝するユリウス。
「有難う!!」
それから、少し考え込んで「でもガリーナの料理と同じくらいになるには何年かかるんだろう…?」
「ガリーナの料理は年季が入っているからな…。まあ、10年はかかるかな?」
「えっ、10年も!!それじゃ、アレクセイが可哀想だよね。そんなに辛抱できるの?」
「それも、そうだな。じゃあ、頑張って5年でどうにかしてくれよ!」
アレクセイは両手を組んで祈るようにユリウスに懇願する。
そのおどけた姿に思わず微笑んで「じゃあ、3年で一人前になれるように頑張るね」とユリウスはアレクセイに明
るく答えるのであった。
(そうだ、ユリウス。目標を持つのは良いことだ。過去を必要としない俺たちには目標は現在を未来へと結びつけ
る架け橋となる。おまえも前だけを向いて俺と一緒に歩いていけばいいんだぞ!!)

「この料理だって見た目は悪いけれど味はいいぞ!なんてたって特別の隠し味があるからな」
アレクセイの言葉に首をかしげるユリウス。
(特別なスパイスなんて使っていないのに…。何が隠し味なのだろう?)
料理したユリウスが全く思いつかず考え込んでいると、すかさずアレクセイが言葉を続ける。
「なんだ、お前。自分で作っていて分からないのか!愛情だよ!!お前の料理には俺への愛情がいっぱい詰まって
いるんだ。それが隠し味さ」
驚いて眼を丸くするユリウス―でも次の瞬間驚きは胸いっぱいに広がる喜びへと換わっていく。
(ああ、これだ!!アレクセイの言葉はその温かい鳶色の瞳とともに僕の心をいつも明るくしてくる。記憶を失く
してから初めてアレクセイと会った時、暗闇の中でもがいていた僕の心に光が差した。それから、あなたに会う度
に少しづつ暗闇が消えていき、あなたと暮らすようになってからは暗闇のなくなった僕の心が段々と温められてい
くのが分かるんだ。そして、僕はまだ自分の足で立てないけど前を向くことは出来るんだよ。アレクセイ、あなた
は太陽みたいな人だね!!)

生まれ故郷の西シベリアで眺めていた 澄み渡った空を思わせる青い瞳に 水晶のような嬉し涙を浮かべるユリウス
に、いじらしさと恋しさが募り思わずアレクセイは強く抱きしめてしまう。
(見た目が悪くても、味が未熟でも、俺だけのために作ってくれた料理を味わうのは20年以上ぶりだ。トボリスク
で死んだおふくろが週一回だけ俺の好きな料理を作ってくれた時以来だ。料理好きのおふくろが本当は毎日でも俺
のために料理をしたいのを週一回だけで我慢したのは、料理人の仕事を奪わないためと使用人にも休みを与えたか
ったからだ。おさな心にその日がどんなに待ち遠しかったことか…。それは好物の料理が食べられるという嬉しさ
以上に、愛情のこもった手料理をおふくろと差向いで食べることにこの上ない幸福を味わえたからだ。愛する人が
自分だけのために料理を作ってくれる、それがどんなに幸福であることをお前の料理が思い出させてくれたぜ。あ
りがとうな、ユリウス!!)

こうして、別れと再会を重ね多くの同志たちの生命を譲り受けてやっと手を取り合えた二人の生活が始まっていっ
た。

(初出: 2014年8月)