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母、娘。そして、夫。


作:鈴さま
ドイツ、レーゲンスブルク。
名家、アーレンスマイヤ家でただ一人家を守るマリア・バルバラの元へ何年かぶりに行方のしれなかっ
たユリウスが帰宅しました。
マリアにとってただ一人の身内、ユリウスを強く抱き締めます。女性であり妹である事を初めて知った
彼女は着替えを二つ用意しました。一つはドレス、もう一つはパンツ・スーツ。
妹は迷う事なく、翌朝。パンツを履いて姉の前に姿を現しました。
口から発する言葉は「クラウス。クラウスはどこなの ? 」肉体は女性。でも……、外見はいつもパ
ンツを履き男装のみ。表情は、眉を吊り上げ、薄い唇を真一文字に。本来、女性の持つ、柔らかさや愛
らしさが全くありませんでした。
マリアはそんな妹を悲しげに見詰めます。『生まれた時から、その様に育って来たのね。アンバランス
な毎日、貴方にはそうする事が普通なのね。』
そんなユリウスにも、1年に一度だけ。マリアの知らない女性らしい姿でいられるひとときがありま
した。
毎年、8月16日の朝のほんの短いひとときでした。
ユリウスの寝室。殺風景な空間、一人で寝るには寂しいくらいに大きなベット、昔よりずっと同じ古
い家具、やけに豪華なシャンデリア。女性らしく身を飾る事のないユリウスにとって、不必要な大きな
姿見の鏡。
その朝ユリウスは静かに目を覚まします。
そして、躊躇なくその大きな姿見の鏡に掛けられた布を外し、その朝だけはその身を写します。「よか
った! このナイトドレスを着ていて。」そっと微笑みます。襟元にはたっぷりのレース、それを結ぶリ
ボン。胸からウエストにかけてゆったりしたデザインのナイトドレス。無理やり記憶から追いやってし
まった昔々に着ていたマタニティードレスにそっくり。
下唇を真一文字に噛み締めた口元は……、ふっくらと淡いピンク色の微笑みを浮かべる優しい口元に。
つり上がった眉、厳しい目付きは……、もうすぐやって来る目には見えぬ二人をしっかり受け止める事
の出来る ! 母、妻の優しい瞳に。
そして。両手をそっと、そっと、お腹に当てます。まるでその中に生命を宿している様に、その命を包
み込む様に。ゆっくりと窓際へ “カチャッ ”鍵を開け全開に !「もうすぐ ! もうすぐ ! 」心待ちに
します。“すぅ〜、さわさわ、さわさわ ”、優しい風が。レースのカーテンが“ ふわぁ〜 ”と、舞い
上がりユリウスの美しいブロンドの髪を撫でます。
人生が暗転したあの日、あの瞬間。ボロボロになってロシアを後にし、故郷レーゲンスブルクへ帰り
一年後の8月16日。
ロシアからの優しい風はユリウスを愛する二人の言葉を届けてくれたのでした。
“あの日は悲しみで終わったのではなかった ”のだと。
表情は穏やか、身も心もすっかり女性のユリウスに 窓から暖かい風が !
その風がロシアより運んでくれるのです。
毎年1年に一度だけ、遠い遠い道のりを、その風は愛する二人の声をユリウスだけに届けてくれるので
す。
一人は小さな幼き女の子の声、ユリウスは再びそっと、お腹に手を当てます。「お母さん、待ってて
ね。」
もう一人は男性の声、“体中のすべてがちぎれて、熱い想いとともにとびちりそうなほど……、好きな
人 ! ”「ユリウス、待ってろよ。」
血の通った、生きた人間としての女性ユリウスは「待ってるよ。」と、答えます。
ほんのひととき、短いひととき。
そこには、母と娘。 妻と夫。 親子三人。
8月の蒸し暑い風にまじり、朝露の緑の匂いが部屋の中に香ります。
悲しみで一杯だった胸の中が、満たされて来ます。それを体で感じながら、
「ふぅ〜。」
「はっ ! 」
“ザワザワザワ ! ザーッ。 ”
再び今度は、強風が ! レースのカーテンを大きく、激しく揺らし、バタン ! ! !窓が勢いよく閉まりま
す。
それが終わりの合図でした。
食堂より、マリアお姉さまが呼んでいます。
「ユリウス、朝食にしましょう。」
とたん、ユリウスの頭の中は元の空白に。「クラウス…。」と、呟き。
表情は虚ろに、ナイトドレスを脱ぎ捨て、パンツ姿に。
〈 終 〉
「お母さん。」 「ユリウスよ。」 「必ず、会いに行く。」
アレクセイ、ミーナより。
満たされた一瞬の出来事は、一生の宝物。
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